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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

ベーリング海峡説 (THE BERING STRAIT THEORY)

さまざまな分野の科学者達は、アジアからアメリカへの移住説を支持しますが、いつ、どのように、なぜ最初にアメリカに人類がやって来たのかという点で異なった意見があります。移住の背景は何だったのでしょうか? 彼らは陸から来たのか海から来たのか、それとも両方から来たのか? なぜ移住してきたのか?ベーリング海峡説は、氷河期時代にベーリング地峡の「陸の橋」がアジアとアメリカの間の移動手段として使われたと主張します。

陸が海水面上にあり、大陸と大陸をつなぐ橋の役目を果たすことが出来る比較的狭い地峡が世界にいくつかの場所があると歴史学者は証明しています。より好条件で狩猟や採集ができる場所を求めてこれらの陸の橋を渡り移住したのでしょう。ベーリング海峡もそのうちの1つだと考えることができます。

イエズス会士ホセ・デ・アコスタ(1539年~1600年)は、アジアとアメリカを結ぶ一時的な「陸の橋」があった可能性をはじめて指摘しました。1800年代後半までに、たいていの学者は、人々ははじめアジアからベーリング海峡の「陸の橋」を渡ってアメリカに移住したという説を受け入れました。

アラスカのスワード半島は更新世氷河期、シベリアとアラスカをつないでいた幅1,600kmほどのベーリング地峡(ベーリンジア)の一部だったことを考慮すると、「橋」と言う用語は適切ではありません。この説は、ベーリング地峡の「陸の橋」が過去7万年間、海面の著しい低下により、氷がない状態の時があったという考古学の証拠により支持されています。海岸や海から移住してきたという別の説がベーリング海峡説に挑みます。埋蔵物から考えると、ベーリング海峡の海域に著しい障壁があった1万2,000年前まで人々は北米アメリカの両方に住んでいたとみられます。しかしながら、海岸沿いのシベリアとアラスカの人々の類似点から、ベーリング海峡は2つの文化の接触を受け入れていたことを示しています。類似した言語、精神活動、狩猟道具、伝統的な住宅、独特な魚の洗い方、発酵による肉の保存方法などが共通点ですが、民俗学者があまり例を述べていません。

「陸の橋」が水に覆われても、2つの大陸の通路が、海岸線に沿って小さなボートで移動することができます。アリューシャン列島は、かつては半島だったという証拠があります。伝統的な説は、最初のアメリカ人が1万1500年前にシベリアからアラスカまで「陸の橋」を渡り、氷河の影響を受けない南に向けて渡ったと言われています。

最初の住民は、ニューメキシコの町にちなんでクローヴィス人と呼ばれています。1932年に初めて狩猟用にマンモスが使われた場所がある遺跡は、考古学的に南北アメリカに散らばっています。南米に位置する遺跡などからクローヴィス文化よりも早い人類の居住跡は、説得力のある証拠となります。

モンテベルデ遺跡は、チリ南部(サンティアゴから南に800キロ)の泥炭湿原にある住居跡で、良く研究されている場所です。 居住跡の居住民が食料にしていたとみられる海草9種類が確認されていますが、放射性炭素年代測定によってこれらの海草が1万3980~1万4220年前のものであることが判明しました。

人々はどのようにして早い時期に南に定住することを成し遂げたのでしょうか。海岸線の移動ルートは、シベリアやアラスカと他の大陸間の「陸の橋」の中央を歩いて移動していた時と比べてよりアクセスしやすくなっています。

ボートで移動する人々は、1万2,500年前もしくはもっと早くに太平洋海岸に沿ってアラスカや北西カナダ、最後には南米のペルーとチリまで移動していたという形跡が浮上してきました。

オーストラリアやメラネシア、日本の考古学的証拠は2万5,000年から4万年前に使われていたボートです。海のルートは、たくさんの食料源があり、陸より簡単で早い移動ができます。その時は多くの海岸地帯は、氷河作用を受けず、道中に上陸の機会がありました。

カナダ、カリフォルニア、ペルー、エクアドル、チリの海岸線に沿った遺跡は、1万年~1万2,000年に遡ります。

多くの海岸遺跡は浸水し、特定するのが難しくなっています。シベリアとアラスカのスワード半島間は、ベーリング地峡としても知られている場所でベーリング海峡を横断する距離は、約88㎞(55マイル)で、更新世氷河時代の間は、海ではなく陸であったと考えられます。

ステップやツンドラの草の「陸の橋」により、何百キロメートルの広がりは、人類や動物、植物の移動ルートのアイディアが形成されました。ネイティブアメリカンとなった人々は、ベーリング地峡の「陸の橋」をさまざまな間隔で移動し居住しました。ベーリング海峡海域の深海の土壌は、景色が乾いたツンドラの環境で成り立っていることを示しています。気候は現在のツンドラや草原平原の気候と似ていて、短い夏、極端に長く寒い冬、絶え間のない風が吹いていたと考えられます。

マンモス、マストドン、バイソン、サイガなどの大きな哺乳類の遺物が見られることから最初の北米人は、大きな獲物を狩猟していたことが分かります。

科学者は、移動時期やルートについて区分けをしています。更新世氷河時代は、160万年前に始まり、1万年前に終わったと考えても驚くべきことではありません。

4万年前から1万3,000年前の氷河期の終わりにかけて海水が上昇する前の条件は、移動に適していたかもしれません。 その後、海の環境が浅瀬の陸の橋へと変わり、移動ルートが変わりました。

ベーリング地峡は、何人かの専門家によると1万5,000年間という長い間、人類が住んでいた可能性が指摘しています。これは、種族の血統をはっきり区別する科学的な遺伝子が進化するには十分な時間です。

2007年に PLoS Genetics で出版された研究で、3つの質問について問われています。1つは、ベーリング海峡の「陸の橋」を1万2,000年前に渡った少人数のシベリアから移住した人類が北アメリカと南アメリカの先住民を生じさせたのか?
もしくは、3万年前に始まった移住に続き、人々は何度かにわたり、アジアやポリネシアなどの場所から2つの大陸に海か陸から来たのか?

この質問に答えるために、著者は北、中南米に渡った29のアメリカ先住民族の子孫の678の遺伝子マーカをDNA鑑定しました。

2つのシベリアグループからのデータを分析した結果、ユニークな遺伝子の変異が発見されました。その遺伝子は、非コード領域で、シベリア発祥し、南北アメリカ大陸に渡ったアメリカ先住民の間に広がっています。このことは、アメリカ大陸に最初に来た人類は、一度に移動して来たか、たくさんの波にのって1つの民族が移動して来たかを意味します。この事は、人々が異なった源から移動の波にのってきたという可能性を排除しています。

2008年に発表されたさらなる研究で、この説が広まり、ベーリング地峡で東中央アジアの遺伝子からの人口の拡大は、3段階以上の期間で起こっていると言っています。これらの結果は、新しい世界の定住のモデルとなっています。

アメリカ先住民の祖先が4万年前にアジア遺伝子から分岐し、ベーリング地峡に移動して徐々に人口が拡大してきました。

ベーリング地峡(ベリンジア)で人口規模の変化が長期間続いた後、1万5,000年前に氷のない所もしくは海岸に沿って、アメリカの先住民はアメリカに渡り急激に拡大しました。この急速な新しい世界の植民地化は、1,000人から5,400人の個人のグループによってなされました。

モデルはアメリカに最初に移動した時期やスケールの詳しいシナリオを提示し、新世界の創始者の推定、将来のデータをテストする統一された説と分析方法を提供します。

科学的仮説に関して、新しい事実がでてきましたが、現在ではベーリング海峡説を支持する強い証拠があります。ベーリング海峡の「陸の橋」が存在し、1万2,000年~6万年前の間にアジアから北アメリカにその「陸の橋」を渡り人類は、さまざまな時期に移動しました。

(北極旅行/極東ロシア10)