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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

英雄の時代そして南極大陸伸長

英雄の時代そして南極大陸伸長(1882~1919)
(The Heroic Age and Continental Penetration)

それまで北極でなされていた捕鯨が乱獲の為に衰退し、1882年には新たな漁場を求めて数隻の船が南大洋をめざして偵察航海を開始しました。その先駆となったのがダンディー捕鯨船団で、ジェイソン号をはじめとする4隻の船団が南に進路を取り、他の捕鯨船も彼らに続きました。この年から第一次世界大戦の終戦近くまで続いた時期を英雄の時代と呼びます。この時代は南極沿岸の正確な地図を作成すると同時に、南極点の征服が主な目的になりました。これは同時に近代捕鯨の黎明期であり、2度目の南大洋海洋資源乱獲の時期ともなりました。

捕鯨船の偵察航海は多くの人々の注目を浴び、実質的にこの短くかつ激しい時代の幕開けとなりました。また1895年にはロンドンの第六回国際地理学会で南極宣言がなされました。それは、「南極探検はまだなされていない地理学的探険の中で最も偉大な探険である。本学会は世界中の科学関係の学会に対して、南極探検がもたらすであろう科学のほぼ全分野における知識増加のために、今世紀(19世紀)終了までに最も有効と思われる全ての方策を採るよう切望する。」との呼びかけでした。

最初の南極越冬の試みは、1898年にベルジカ号で乗船したまま南極圏で行われ、1899年には南極大陸のアデア岬の陸上で行われました。亜南極最後の発見となるスコット島(1902年)が発見され、この時期までにおおまかな南極大陸の輪郭が分かりました。1911年から12年の夏には2度の南極点到達があり(両者の間には33日の差があった)、初の南極探険音声記録が1902年(ガウス号)と1903年(スコシア号)映画として録られました。 1902年にはディスカバリー号とガウス号から水素ガス気球を利用して、2度上空からの観測が行われました。

1913年にはコモンウェルス湾でダグラス・モーソンが、マッコーリー島を中継点にして南極大陸とオーストラリア間の無線連絡システムを設置しました。1903年3月には最初の恒久的な気象観測基地がサウスオークニー諸島に開設し、1904年11月には最初の沿岸捕鯨基地がサウスジョージア島のグリトヴィケンに建設されました。この時代いくつかの主な探険と救援には政府の資金援助がなされましたが、大多数は個人または民間出資に頼ったものでした。この頃は流れだす氷山の量も予想を超えるもので、特に1892~94年、 1903~04年そして1906~09年にはヨーロッパ、オーストラリア間を航行したほとんど全ての船舶が夥しい量の氷山群を目撃しています。この事は、この時期に大型棚氷からの大規模な崩壊が起こったのではないかと推測できます。

この短くかつ激しい時代にはアルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、英国、チリ、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデンから南極探険船が出航し、また最後のオットセイ猟師とも言える人達もオーストラリア、カナダ、チリ、フランス、ニューファンドランド(カナダ)、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、アメリカから出航し、幾つかの島々で猟を続けていました。やがて、南極の次の産業である捕鯨がアルゼンチン、英国、チリ、ニューファンドランド、ノルウェーの会社により開始され、すぐに広がっていきました。その約100年後には、その頃の小屋が11ほど重要な史跡となって残りました。その他の小屋は自然や人間の手によって崩壊してしまいました。さらにこの時期は北極点に挑戦する試みが、成功、不成功を含めて最低でも17回なされ、南・北極とも英雄の時代だったのです。

1901年には英国海軍中佐であったロバート・ファルコン・スコットがディスカバリー号でヴィクトリアランド遠征を行いました。同隊はマクマード入江にあるロス島の南端に越冬小屋を建て、同船と共に越冬しました。スコットは二人の同僚エドワード・ウィルソンとアーネスト・シャクルトンと共に犬ぞりを使って極点を目指しましたが、南緯82°地点で引き返さざるを得ない結果となりました。同じ年、オットー・ノルデンショルドはスウェーデンの遠征隊を率いてウェッデル海を目指しました。同隊の探険船アンタークティック号が氷に押し潰されて沈没してしまったり、隊員数人ずつが、3ヶ所に分かれてお互いの安否を知らぬまま一冬をすごしたりなど、筆舌に尽くせぬ苦難を果敢に乗り越え、2年以上もたった1903年11月にようやく生存者全員が救出されたのです。多くの困難に付きまとわれたにも関わらず、この遠征は多大の科学的貢献をした事で知られています。

1910年は同じく、エリク・フォン・ドルガルスキー率いるドイツ南極探検がガウス号でやって来た年です。ケルゲレン島に小さな基地を建てた後、スコットの英隊、ノルデンショルドのスウェーデン隊と協力して観測をしました。大陸沿岸から約80㎞の所で海氷に閉じ込められたまま1902年の冬を過ごしました。その間、ガウスバーグと名付けた大きな火山まで短い氷上遠征をしています。

ジャン・バティスト・シャルコーは、1903年にフランスの南極探険隊を組織し、南極半島西岸の大きな部分を海図に残しました。その海図は、その後何年にもわたって南極航行の重要な資料となったのです。シャルコーは1908年に当時最先端の極地探険船 プルクワ・パ号(なぜ駄目なのか?)で再び南極に戻りました。さらに探険や沿岸の測量を続ける一方、雪目防止ゴーグル、ガソリンエンジン付モーターボート、各種の衣類など、極地探検に有効だと思われる先端装備を取り入れました。シャルコーは「極地の紳士」として知られる思いやりの深い人物で、鯨の乱獲の危険性を初めて指摘した人のひとりです。水路学、地質学、植物学、動物学に関する広範囲の観測をしました。しかしこの時点ではまだ南極の二大探求点である南極点と南磁極への到達は達成されていませんでした。1907年には以前スコット隊の一員だったアーネスト・シャクルトンが「二ムルド号」で再び南極の地に戻ってきました。南極点南磁極到達という二つの栄冠を手中に収めるためでした。犬に加えてシベリア馬を移動手段に用いロス棚氷を横断し、南極原までソリを引かせることにしたのです。しかし極寒の地では馬は長くもたず、逆に自分達がソリを引く羽目になりました。想像を絶する過酷な条件にも関わらずシャクルトン探険隊は南極点から180kmの地点まで到達しましたが、そこから引き返す決断を下しました。一方遠征のもうひとつの目的である南磁極への到達は副隊長であるオーストラリア人のエッジワース・デビッドらによって達成されました。さらに同隊は、活火山エレバス山(3,795m)の初登頂を1908年3月10日に果たしました。シャクルトン隊はまた、ベアドモア氷河周辺の岩層で石炭層と化石を発見しています。

ロアール・アムンセンは長年北極点に一番乗りで到達する事を夢見ていました。しかし1910年夢の実現に向けて出発のわずか数ヶ月前になって、ロバート・ピアリーとフレデリック・クックの二人が既に北極点に到達したとのニュースがもたらされたのです。そこでアムンセンはひそかに当初の計画を変更し、南極に行くことにしました。ロバート・スコット大佐と直接競争する事になったのです。スコット大佐も南極点に再度挑戦することを既に発表していたからです。

アムンセンはロス棚氷にある鯨湾に基地を設けましたが、それはマクマード入江に設けられたスコットの基地より出発点として111kmも南極点に近い場所でした。アムンセンは大陸走破には犬ぞりを使うことに決めていました。北極遠征の経験からも犬が信頼できる動物である事を十分知っていたからです。南極への遠征はごく細部に渡るまで綿密にかつ整然と計画されていました。アムンセンが1911年12月14日に南極点に立った時にはスコットが到達した形跡は見当たらず胸をなで下ろしました。アムンセンによる南極点往復は時計で測った様に予定通り順調に進み99日の日数を要しました。

一方、ロバート・スコット大佐 は、1911年に南極に戻りロス島のエヴァンス岬に基地を設けました。その後、冬の間の9ヶ月間は科学観測を行ったり、春になり日照が戻り次第予定している南極点挑戦の準備をしたりしました。スコットの勇敢な、しかし不運な遠征の模様は細部までよく知られている通りです。スコットと4人の極点挑戦隊員はアムンセンに33日の遅れを取りながら1912年1月17日南極点に到達しました。そこでノルウェー人のライバルが自分たちより先に到達した事を知り、深く落胆しながら帰路についたのです。帰途についた5人は予想を超える悪天候の中で食料と燃料の不足に苦しめられます。先ずエヴァンスとオーツが死に、その後スコット、ウィルソン、バウアーズは1912年3月29日又はその直後、ブリザードに襲われたテントの中で命を落としました。それはデポ(物資補給)地点からわずか20kmという場所でした。3人の遺体は8ヵ月後の翌春、捜索隊が発見し、ロス棚氷上のその場に葬りました。

皮肉な事に、世界的に注目を浴びたのはアムンセンの偉業よりもスコット隊の悲劇的な最後でした。アムンセンによる南極点初到達の功績は母国ノルウェー以外ではそれほど賞賛を浴びる事もありませんでした。更に皮肉な事に、スコットの悲劇ばかりが強調されて伝えられ、その陰にあった貴重な科学的発見の多くが見過ごされてしまった事です(理解は出来る事ですが)。一方、アムンセンは探険旅行としてはめざましい成果をあげましたが、科学的な価値はそれほどありませんでした。

勇猛果敢なオーストラリア人のダグラス・モーソンは、シャクルトンの1907年ニムロド号の遠征では、南磁極までエッジワース・デビッドに同行しエレバス山へも登頂しましたが、1912年1月にはスコットが南極点に到着したのと時を同じくしてコモンウェルス湾のデニソン岬に自分の遠征隊を率いて上陸しました。モーソン隊はシャクルトン棚氷とマッコーリー島に基地を置きました。彼の遠征もまた過酷な状況を乗り越える勇気が試される苦難の旅となりました。不運な事にデニソン岬は地球上で最も強風が吹き荒れる地域にあたっていました。絶えず吹きすさぶ暴風の為、モーソン隊の行く手にはありとあらゆる困難が待ち構えていました。ようやく到着後10ヶ月たった11月に風もなんとか緩やかになり、地理学や科学的研究のいくつかを果たす事が出来ました。モーソンは隊員たちを率いて遠征に出発しましたが、その奇跡のサバイバル・ストーリーは南極探険歴史の中でも最も感動的なものといえましょう。越冬隊2隊はオーストラリアの南にあたる部分の南極沿岸を測量し、南磁極も2度目に訪れ、極が動いている事を確認しました。

同行の二人が悲劇的な状況で死を遂げた後、モーソン一人が基地に生還し、残りの6人の隊員と共にコモンウェルス湾で越冬しました。マッコーリー島基地も残っており、1913年2月には南極からの最初の発信(スコット死のニュース)を中継しています。

アーネスト・シャクルトンは自身が南極点初到達者にはなれませんでしたが、次の目標を世界初の南極大陸横断という壮挙に定めました。計画では二つに分かれた遠征隊が2隻の船で、それぞれ南極の反対方向から上陸し、シャクルトン隊はウェッデル海に上陸して6名の隊員と共に南極点を通過して3,600km を進み、大陸を横断する。もう一方の遠征隊はロス海側から上陸して大陸を進みベアドモア氷河の頂上でシャクルトン隊と合流して、食料・物資の補充をした後、そのまま付き添ってロス海の基地まで帰着するという計画でした。

しかしこの計画は最初から困難に遭遇しました。シャクルトン隊はエンデュアランス号に乗船して1914年の12月初旬にウェッデル海に入ると、その年の氷の状態が最悪である事が分かりました。そして1915年1月19日には船が海氷群の中に閉じ込められるという絶望的な状況に陥りました。10月27日には船を捨てて、近くの氷板に氷上キャンプを張りました。船は一ヶ月後には沈没してしまいました。海氷群が非常に密集していた為、3艘のボートと食料を引っ張って、開水面または陸地のいずれにも近づくことも出来ません。海氷と共に北に流され続けた1916年4月初旬にやっとボートを水面に降ろすことが出来、6日後に南極半島の北240km にあるエレファント島に辿り着くことが出来ました。

島には好適なキャンプ地と言える場所はありませんでしたが、周りには食料となる多数のアザラシやペンギンを少なくとも冬が近づくまでは見つけることが出来ました。シャクルトンは助けを求めて5人の隊員たちと共に、一番大きなボートでサウスジョージア島にあるノルウェーの捕鯨基地に向けて出発する事にしました。6人は、4月24日に出発し、救命ボート、ジェイムズ・ケアード号で16日かけて1,500kmの荒れ狂う海を横断しサウスジョージア島に辿り着きました。

しかし、彼らは捕鯨基地がある海岸とは反対側の南側に着いてしまい、基地に辿り着くには、ほとんど装備も無しに未知の山脈を越えなければなりませんでした。4ヶ月後の1916年8月30日に、やっと、それも4度の救助の試みで、シャクルトンはエレファント島に取り残されている隊員たちを救助する為にチリ海軍の蒸気駆動タグボート「イェルチョ号」に乗って戻ってきたのです。そこで試練に耐えた22名の隊員たち全員と感動の再会がなされたのでした。ロス海からの上陸隊もまた過酷な状況にさらされていました。嵐の中、10名の隊員が上陸中にオーロラ号は流されてしまい、1917年にようやくシャクルトンが救援に到着した時には既に3名が死亡しており、生存者は7名でした。流されたオーロラ号は氷に閉じ込められたまま1915年の冬を過ごしたのでした。

(南極旅行&南極クルーズ3-3)