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南極探検の歴史 | History of the expedition to the SOUTH Pole

南極大陸を最初に発見したのは誰だったのでしょうか? どこの誰であったかは定かではありませんが、多分1820年の出来事だったと思われます。
ロシア帝国探検隊長であった、エストニア人のタデウス・フォン・ベリングスハウゼンだったでしょうか? または、英国海軍大尉エドワード・ブランズフィールドだったでしょうか? それとも、米国コネチカット州ストーニントン出身の若きオットセイ猟船長のナサニエル・パルマーだったでしょうか?
あるいは、その内の誰でもなく、企業秘密を護るために自分の発見を公にしなかった別のオットセイ猟師だったかもしれません。

南極大陸に最初に上陸したのはおそらく、アメリカのコネチカット州ニュウヘイヴンから来た、オットセイ猟師のジョン・デイヴィスだと考えられます。
彼は1821年2月7日に南極半島のヒューズ湾と思われる海岸に上陸し、航海日誌に「この南の陸地は大陸だと思う。」と記しています。南極大陸に上陸した最初の女性は、1934年ノルウェーの捕鯨船、トースハウン号船長クラリウス・ミケルセンの妻、カロリンで東南極、東経80度近くのヴェストフォルド・ヒルにあるトリン島(Tryne)に上陸しました。

現在では、遠方まで出かける私的探検は珍しくありませんが、初期の最も特筆すべきなのはアメリカ人ウィル・スティーガーが編成した南極大陸横断探検でしょう。同行した5人の仲間はそれぞれ英、仏、露、日、中からの出身でした。犬ぞりを使い、1989年7月27日に南極半島北端を出発し、6,400km余りを221日間かけて踏破した後、1990年3月3日に終着地点であるソ連のミルニィ基地に到着しました。

1500~1600年代

サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake) 1540~1596年
フランシス・ドレークは、探検家でもあり海賊であったという人物で、女王エリザベス1世のお気に入りでした。彼には、1588年のスペイン無敵艦隊撃破という任務が与えられました。しかし考えていたことは、科学的な探査や地図の作成などといった動機ではなく、もっと貪欲なものでした。1577年~1580年にかけて、ドレークはイギリス人初の世界一周を成し遂げました。この航海で、マゼラン海峡を通過し、太平洋と大西洋が出会う場所と考えていた南緯57度よりもさらに南を航行した事により、彼はティエラ・デル・フェゴ(フエゴ島)が伝説の南方大陸とはつながっていないことを明らかにしました。ホーン岬と南極半島の間の大荒れの海域は、彼の業績をたたえてドレーク海峡と名付けられています。

1700~1800年代

ジェームス・クック(James Cook) 1728年~1779年
当時、最も偉大な探検家であった英国人のジェームス・クックは、1768年から1771年にかけて、初の大がかりな探検をおこないました。それは、金星の太陽面通過の観測と南方大陸の発見を目的としたものでした。ジョセフ・バンクスや科学者たちとともに、南太平洋へと派遣されました。その航海で、キャプテン・クックはニュージーランドの大部分の海図を作成し、オーストラリア大陸の東海岸を目視したと主張しました。1772年から1775年の2回目の航海では、クックは、南半球の高緯度海域における初の世界一周を成し遂げ、当時一般的に信じられていた、温帯にある南方大陸存在の誤りを正しました。1773年1月17日、彼の2隻の船レゾルーション号とアドベンチャー号は、史上初めて南極圏に突入しました。この航海の後、サウスジョージア島の領有権を宣言しました。1776から1779年の彼の3回目の航海で、クックは北アメリカからシベリアにかけての北極圏の一部を探検しました。しかしその途上、ハワイ島で原住民によって殺されてしまいました。
ファビアン・ゴットリーフ・フォン・ベリングスハウゼン(Bellingshausen) 1778年~1852年
ドイツ系エストニア人提督であるベリングスハウゼンは、1819年ロシア皇帝アレクサンドル1世の命による南方諸島航海の際にはすでにロシアの偉大な船員として知られていました。彼の船はボストーク号とミルニー号でした。ベリングスハウゼンは初めてサウスサンドウィッチ諸島を訪れ、20世紀にも通用する綿密な測量を行いました。その時点で史上初めて南極大陸を目撃していたのかもしれません。翌年、彼は不毛で急斜面のピョートル1世島を発見し、確実に南極大陸を目撃しています。南極大陸を周航し、103,712kmの航海後、帰着しました。
ジェームス・ウェッデル(James Weddell) 1787年~1834年
ジェームス・ウェッデルは、王立海軍、商船、オットセイ猟など、多様な職業を経験しています。1819年~1822年にかけて、彼は帆船ジェーン号で南極でのオットセイ猟航海に関わりました。1822年、サウスシェトランド諸島とサウスオークニー諸島周辺ではオットセイをあまり見つけられず、新しいオットセイの生息域を探すために南方へと進路を変更しました。彼は、オットセイは見つけられませんでしたが、ジェームス・クックよりもはるか南の半島の東を396kmも航海し、後にウェッデル海と名付けられた大きな湾を奥に入りました。探検しながら、ウェッデルは海水温、水の流れ、氷の動きを注意深く観察し、のちの多くの探検の指標である科学的探検の基調を定めるのに役立ちました。
ジュール・セバスチャン・セザール・ デュモン・デュルヴィル
(Jules-Sebastian Ceasar Dumont d’Urville) 1790年~1842年
1830年代は南極探検が集中した時期で、イギリス、アメリカ、フランスは、南方の謎に満ちた島々を探検するために探検隊を送りました。デュモン・デュルヴィルは、1837年から1840年、探検隊を率い、未だ誰も成し遂げたことがないはるか南方への航海の命を受け、アストロラーベ号とゼリー号で船出しました。デュモン・デュルヴィルの一行は、ウェッデル海の氷に閉じ込められながらも、南極の海岸線556km以上を海図に残し、また彼の妻の名を付けたアデリーペンギンを初めて記録に残しています。
エドワード・ブランズフィールド(Edward Bransfield) 1795年~1852年
ウィリアム・スミス船長が、後のサウスシェトランド諸島を発見したと報告した時、その探検隊の隊長は、若いイギリス海軍中佐、エドワード・ブランズフィールドでした。この遠隔地の島々の周囲を航海した後、ブランズフィールドはさらに南へと旅を続けることを決意し、未踏の島々を発見しようと考えていました。どんよりした天候で視界の悪い日が続いた中でも、彼は決して落胆しませんでした。そしてついに1820年1月30日、ようやく霧が晴れ、後に南極半島と呼ばれる場所がかすかに見えたのでした。極地歴史家たちの中には、ブランフィールドこそが初めて南極大陸を目撃したのだと考えている人がいます。
チャールズ・ウィルクス(Charles Wilkes) 1798年~1877年
もし、ジェームス・クラーク・ロスの航海が1840年代で最良の装備と編成だったとするならば、1838年~42年のチャールズ・ウィルクスのアメリカの探検隊は最悪のものであったと言えます。彼の6隻のどの船も耐氷船ではなく、2隻の船は南極付近を航海した経験がありませんでした。ウィルクスは、南極大陸のアデリーランド部分(オーストラリアの南)を発見し、現在、ウィルクスランドと呼ばれている海岸部分に沿って西へと航海しました。壊れやすい船体は、氷に打ちのめされ、また乗組員は病気に苦しみました。ウィルクスは、記載のない島々を海図に記し、精気を失った乗組員たちと帰国しました。彼は英雄視されるような帰国を期待していましたが、乗組員たちに対する厳しい待遇が問われ、軍法会議にかけられました。彼は無罪で釈放されましたが、127もの任務放棄をしたため、人気はありませんでした。
ナサニエル・ブラウン・パルマ―(Nathaniel B. Palmer) 1799年~1877年
クジラとオットセイの資源が北半球で激減したため、未開発の資源に富んだ南方へと注目が移りました。冒険家で野心家の若いアメリカ人、パルマーは、1770年代にキャプテン・クックが描いたたくさんの海洋動物を見つけに乗り出しました。1820年、オットセイ猟船団のヒーロー号という船に乗り、サウス・シェットランド諸島の南方のいくつかの島を発見しました。ベリングスハウゼンやブランズフィールドがそうであったように、彼も南極半島を最初に発見したと信じました。1年後、彼はオットセイ猟師のジョージ・パウエルと共にサウスオークニー諸島を発見しています。

1800~1900年代

サー・ジェームス・クラーク・ロス(Sir James Clark Ross) 1800年~1862年
北極探検の経験豊富なジェームス・クラーク・ロスが、1839年~43年にかけて王立海軍の南極探検隊を率いるというのは自然な選択でした。ロスは、厚くした船体や防水隔壁など、極地という特別な海に適したエレバス号とテラー号の2隻の船を率いて出港していきました。この探検で彼は、これまであらゆる船が大陸に近づくことを阻んでいた氷でも、実際には進めるということを実証しました。ロスは、流氷群を越えると広大な開水域があり、西側は、ビクトリアランドと名付けた南極大陸の一部であること発見しました。後にロス海として知られるようになる海域の南端辺りに、ロス島があって、活火山のエレバス山とテラー山があります。その向こう側には、現在、ロス棚氷として知られる高くそびえる棚氷があります。その棚氷に近づいた時、ロスは南緯78度10分に到達していました。
カール・アントン・ラーセン(Carl Anton Larsen) 1860年~1924年
ノルウェーの船乗りの家に生まれ、20歳までに船長の資格を取得し、25歳で初めて自分の船を指揮することになりました。
7年後、彼は南極で初となる植物化石を発見し、また海図に記されたグレハムランド(南極半島の北部)へと達しました。
1901年~1904年にはノルデンシェルド探検隊が使用したアンタークティック号の船長となりました。 船は翌シーズンに越冬隊を迎えに行く途中、氷に閉じ込められた挙句沈没してしまいました。氷上に避難した乗組員はポーレット島で越冬した後、1903年に越冬隊と共に救出されました。 翌年、ラーセンはアルゼンチンで投資を募り、サウスジョージア島のグリトビケンに初めての陸上捕鯨基地を創設しました。
白瀬矗(Nobu Shirase) 1861年~1946年
極地地方の探検は20世紀初頭の日本では興味を引き起こしませんでした。白瀬矗は、南極探検隊を組織するために、非常に多くの人々を説得しなければなりませんでした。政府が援助を断った時、彼は、かつての総理大臣・大隈重信に申し入れをし、ついに1911年、開南丸で探検に出発しました。1年目はほとんど収穫がありませんでしたが、白瀬は翌年の夏に南極へ戻り、クジラ湾に上陸しました。一行は、257km内陸に進み、南極に初めて日本の国旗を掲げ、英雄の歓迎を受けて帰国しました。白瀬は、余生のほとんどを探検の借金返済のために過ごし、最後は病気でひっそりと亡くなりました。
カールステン・ボルヒグレヴィンク(Carsten Borchgrevink) 1864年~1934年
オーストラリアに移住したノルウェー人のカールステン・ボルヒグレヴィンクは、南極捕鯨探検隊のメンバーとして、南極大陸のアデア岬に最初に上陸したと主張した後、有名となり脚光を浴びました。この名声を手段として使い、ボルヒグレヴィンクは、裕福な英国新聞出版者のジョージ・ニューンズの援助を得て、サザンクロス号でアデア岬への探検に戻りました。1899年にボルヒグレヴィンクの探検隊は、南極大陸で越冬する事にメンバーに意見の相違があったが、南極の冬の厳しさに耐え、南極大陸で最初に越冬をおこなった。ボルヒグレヴィンクは、ソリでロス棚氷を南に16km旅し、当時の最南端到達に成功しました。
エーリッヒ・フォン・ドリガルスキー(Erich von Drygalski) 1865年~1949年
1901年にドイツの南極探検隊の隊長に任命された時、ドリガルスキーはベルリン大学の地理学の教授としてすでに名前が知られていました。彼の極地経験には、1890年代のグリーンランドにおける4年間の科学的探検がありました。彼の船ガウス号は、ウィルヘルム2世ランドを巡り、氷に閉じ込められ、12か月間足止めされました。その間、ドリガルスキーは、90日間氷原をそりで渡りました。1906年にスピッツベルゲンを訪れましたが、残りの人生は南極に関するレポートを書くことに捧げました。
エイドリン・デ・ジェルラシュ・デ・ゴメリー男爵
(Baron Adrien de Gerlache de Gomery) 1866年~1934年
1897年、ベルジカ号はジェルラシュの指揮もと、アントワープからはるか南に向けて、初の国際的な科学的探検調査のために出港しました。ところが南極に到着したのが探検シーズンも終わりに近い1月中旬だったため、ベルジカ号はすぐに氷に閉じ込められてしまい、南極初の越冬船となってしまいました。氷に閉じ込められていた約11か月間には壊血病や極夜の精神的影響など数々の困難を経験しました。ジェルラシュの探検隊は、1899年2月14日、爆薬とのこぎりを駆使して、ようやく氷から解放されました。その後ジェルラシュは多くの北極探検に携わった後、彼の船であるポラリス号をアーネスト・シャクルトンに売却しました。その船は後に有名なエンデュアランス号と改名されたのです。
ウィリアム・スピアーズ・ブルース(William Spiers Bruce) 1867年~1921年
博物学者のブルースは、1892年に捕鯨船の船医として初めて南極を訪れました。非常にスコットランド民族主義者だったブルースは、ロバート・ファルコン・スコットの最初の探検隊を断わり、1902年から1904年にかけて、彼自身のスコットランド南極探検隊を率いました。
そのときの航海で、彼はウェッデル海の奥へ危険を冒して進み、コーツランドを発見しました。長い年月をかけた探検を通して、科学的データを集め、分析が行われました。ブルースは非常に丹念に調べています。その後、彼は北方へと進路を変更し、スピッツベルゲン探検の第一人者となるために、英国政府に掛け合いましたが、認められませんでした。落胆した彼は、セイシェル捕鯨基地の隊長となりました。彼が亡くなった時、彼の遺灰は、南極で散骨されました。
ジャン・バティスト・シャルコー(Jean-Baptiste Charcot ) 1867年~1936年
シャルコーは1903年から1905年にかけて、フランス号に乗船し、最初の南極探検に出かけましたが、長い間フランスの家を留守にしたことが原因で、探検から戻った時に夫人に離婚されてしまいました。しかし (この旅で夫人を失いましたが)、フランス政府に南極半島西岸の非常に正確な海図をもたらすことができました。彼の2回目の探検のときは、もちろん家には新妻が待っていて、前回は未知であった半島海岸線2,222kmの海図をもたらしました。彼はその後も極地探検を続けましたが、1936年にアイスランド近海で難破し、ほとんどの乗組員たちとともに遭難死しました。
ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott) 1868年~1912年
イギリスのデボン州で生まれたロバート・ファルコン・スコット海軍大佐は、13歳で海軍兵学校に入学しました。1899年に少佐となり、国の南極探検の陰の立役者サー・クレメンツ・マーカムに出会うと、すぐに南極探検を率いる任務を願い出ました。彼は任命を得て、1901年にディスカバリー号で南方へと向かいました。探検で科学的成果を挙げたほか、スコットはロス棚氷を越えて、ソリで当時の“最南端”に到達しました。
1910年、彼は2度目の南極探検隊をテラ・ノヴァ号で率い、スコット自身と4人(エドワード・ウィルソン、ローレンス・オーツ、ヘンリー・バワーズ、エドガー・エヴァンズ)は、1912年1月17日に南極点に到達しました。しかし、すでにアムンセンによるノルウェーの国旗が、そこにたなびいているのを見つけました。スコットたちは帰路に悪天候に遭遇し、食料も燃料も尽きて、5人全員が死亡してしまいました。その翌シーズンの春に捜索隊が彼らの最後の苦闘を書いた感動的な記録を発見しました。
オットー・ノルデンショルド(Otto Nordenskjold) 1869年~1928年
ノルデンショルドの叔父アドルフ・エリック・ノルデンショルドは、ヨーロッパから北極海経由アジアへの北東航路を最初に航海した人で、まぎれもなく甥に極地への興味を植え付けた事でしょう。訓練を積んだ地質学者のノルデンショルドは、南極方面へ目標を変更する前には、ティエラ・デル・フエゴとカナダのユーコン州へ探検隊を率いています。1901年~04年にかけてスウェーデンの南極探検を指揮し、貴重な科学的成果をもたらしましたが、彼の船アンタークティック号が氷海で沈没してしまうというトラブルで有名になってしまいました。さらにノルデンシェルドは、1909年にグリーンランドへ、1920年~21年にはペルーとチリへと探検隊を率いてもいます。
エドワード・ウィルソン(Edward Wilson) 1872年~1912年
医師で、博物学者、特に鳥の絵を描く芸術家でもあったエドワード・ウィルソンは、1901年~04年に英国南極探検(ディスカバリー号)で初めて南極を訪れました。1902年に彼はロバート・ファルコン・スコットやアーネスト・シャクルトンとともに、それまでの“最南端”に到達したソリの探検に参加しました。ウィルソンは、スコットとの交友関係を持ち続け、スコットの2回目となるテラ・ノヴァ号での南極探検で、科学スタッフのチーフに指名されました。テラ・ノヴァ号の探検では、冬の間、皇帝ペンギンについて研究するためにクロージエ岬へ旅をしました。この旅は「世界最悪の旅」として知られています。
ウィルソンは、南極点への不運な旅でスコットに同行し、スコットやバワーズらとともに命を落としました。そこは、彼らの命を救えたかもしれない食料のあった“1トンデポ”(貯蔵基地)から18kmのテントでした。
ロアール・アムンセン(Roald Amundsen) 1872年~1928年
アムンセンは、初めて南極で越冬したベルジカ号で、1等航海士として初めて本格的な極地体験をしました。彼は、並外れたリーダーシップの資質を示し、氷に閉じ込められた時、船の乗組員が役割を果たせるように支援しました。1903年~1906年には史上初めて北西航路の航海を成功に導きました。また、北磁極は固定点ではなく、常に動いており、北極圏の謎であることを証明しました。ノルウェー人として、アムンセンの野望はいつも北極点に到達することでしたが、ロバート・E・ピアリーが1909年にこれを成し遂げたと主張したため、その代わりに南極点到達を試みることを決心しました。1911年10月19日に彼と4人の熟練した極地隊は、フリチョフ・ナンセンから借りた船であるフラム号にちなんだフラムハイム基地から52匹の犬を連れて南極点に挑戦しました。計画は用意周到で、感動的な旅の末、1911年12月14日に人類初の南極点到達を果たしました。
1928年、アムンセンは、一旦行方不明になったイタリアの探検家ウンベルト・ノビレ捜索に向かう途中、スピッツベルゲン南の海域で乗っていた飛行機が墜落し行方不明になりました。
サー・アーネスト・シャクルトン(Sir Ernest Shackleton) 1874年~1922年
アーネスト・シャクルトンは、ロバート・ファルコン・スコットによる1901年から04年にかけての英国南極探検隊(ディスカバリー号)の一員として初めて南極を訪れました。その探検で、彼はスコットとエドワード・ウィルソンに加わり、南極点到達を目指してソリで向いました。1907年~09年には、自らの探検隊を組織して、ベアドモア氷河を発見し、南極氷床高原に到達しましたが、南極点まであと180kmの地点で引き返しました。シャクルトンの次の探検は、1914年~17年にかけての南極大陸横断でした。しかし、彼の船エンデュアランス号は、氷に閉じ込められてしまい、流氷に囲まれたまま数ヶ月間漂流しました。シャクルトン隊は氷上キャンプをしながら、3隻の小さなボートで185km先のエレファント島までたどり着きました。そこからシャクルトンは救援を求めて、5人の仲間と共に1隻のボートに乗り、世界で最も荒れた暴風域を1,480km離れたサウスジョージア島へと航海したのです。さらに、地図の無い島を36時間かけて越え、捕鯨基地まで到達しました。その後、4度目の救援船でエレファント島に残した全員を救出し、最終的に隊員の誰一人欠けることなく生還できたのです。シャクルトンは、その5年後に彼の愛するサウスジョージア島で亡くなり、そこに葬られました。
ヴィルヘルム・フィルヒナー(Wilhelm Filchner) 1877年~1957年
フィルヒナーの最初の探検旅行はアジアでした。馬に乗ってパミール高原を探検し、探検隊をチベットまで率いました。その後南極大陸横断を決心し、1910年にドイツを出発しました。彼は目的を達成できませんでしたが、それまで未知だったウェッデル海の南の地域に到達しました。その功績を称えて、棚氷はフィルヒナー棚氷と命名されました。その後、フィルヒナーは二度と南極には戻りませんでした。彼は1926年~28年と1934年~36年にチベットへ二度の重要な探検をし、また1939年にはネパールへの探検隊を率いました。第二次大戦中にはインドに滞在しました。
リンカーン・エルズワース(Lincoln Ellsworth)1880年~1951年
アメリカの炭鉱主の遺産を相続したリンカーン・エルズワースは、有名な探検家ロアール・アムンセンに資金を提供し協力したことで有名になりました。1925年5月に、2人は北極点への飛行を試みましたが、不時着する結果となり、スピッツベルゲン島引き返すまで24日間を氷上で過ごすことになりました。
翌年、エルズワース、アムンセン、ウンベルト・ノビレの3人は、飛行船ノルゲ号で北極点上空飛行を成功させました。1930年代には、ヒューバード・ウィルキンスとともに4度の南極探検を行いました。1936年、エルズワースと副操縦士ハーバート・ホリック・ケニヨンは、3回の給油をしながら南極半島からロス海までの南極大陸横断飛行を行ないましたが、リトルアメリカ基地手前26kmの所で燃料切れになり不時着し、最後は徒歩で基地まで帰還しなければなりませんでした。
サー・ダグラス・モーソン (Sir Douglas Mawson) 1882年~1958年
イギリス生まれのオーストラリア人地質学者のダグラス・モーソンは、コモンウェルス湾(オーストラリアの南)の探検でよく知られており、著書「Home of the Blizzard」に記されています。モーソンは、アーネスト・シャクルトンのニムルド号探検隊に加わって初めての南極を訪れ、エレバス山に初登頂した一員でもあり、南磁極にも到達しています。1911年~14年にかけての探検では、南極の風が最も強い場所に基地を作りました。1912年に、モーソン、ザビエル・メルツ、ベルグレーブ・ニニンズは、ジョージ5世ランドを探検しましたが、ニニンズは12月13日にクレバスに落ちて死亡し、メルツは4週間後にモーソン一人を残して亡くなりました。モーソンは、ソリを軽くするためにポケットナイフでソリを半分に切り基地に戻るという英雄的な旅をしました。最悪の天候のなか、乏しい食料にもかかわらず、クレバスを切り抜けて1913年2月1日にキャンプ地に生還したのです。彼はその後、再び探検隊を率いて南極に赴き、はるか南の地へのオーストラリア人の関心を絶えずそそらせました。
リチャード・イヴリン・バード(Richard Evelyn Byrd) 1888年~1957年
アメリカ海軍将校がスピッツベルゲン島から北極点まで飛行したと発表したちょうどその頃、バード提督も北極方面への探検を始めていました。1928年、南極へと方向転換したのですが、その探検は過去の南極探検の中で最も贅沢なものでした。
基地には12棟の探検小屋に何百もの木箱(crates)や無線塔があり、電話回線までも完備されていて、バードはそこを「リトルアメリカ」と名付けました。1929年、彼は人類初となる南極点上空飛行をしました。この時、飛行中の飛行機が墜落する危機に見舞われ、急遽、生活必需品を機外に投げ捨てました。1933年~1935年の探検では、バードは「リトルアメリカ」の南201km地点の小さな探検小屋で単独越冬しました。彼は南極への探検隊を合計5回率いて、アメリカ政府の焦点作戦と冷凍作戦を完結させました。
サー・ヒューバート・ウィルキンス(Sir Hubert Wilkins) 1888年~1958年
ウィルキンスは冒険好きだったため、鉱業の仕事をやめ、ヨーロッパとアメリカで写真家として放浪しました。1913年~17年にかけて、彼はヴィルヒャルマー・ステファンソンの北極探検の正式なカメラマンとして、1920年南極への大英帝国探検隊に参加しました。また、1921年~22年のアーネスト・シャクルトンのクエスト号探検では、鳥類学者として勤務しました。彼の次の南極への旅は1928年で、新聞業界の有力者ウィリアム・ランドルフ・ハーストに資金援助を受けたものです。この探検で彼は初めて南極上空を飛行しました。1931年ウィルキンスは潜水艦で北極点下を潜ろうとしましたが、失敗しました。1930年代に、リンカーン・エルズワースとの縁で、彼は再び南極探検に行きました。1958年に彼が亡くなった時、彼の遺灰は北極点に散骨されました。
フィン・ロンネ(Finn Ronne) 1899年~1980年
熟練の機械技師フィン・ロンネは、ノルウェー人の彼の父が1910年~12年にロアール・アムンセンの探検隊の一員でもあったので、南極探検に関心があったのは至って自然なことでした。1933年にまだ若かったロンネは9回の南極探検の第1回目をリチャード・イヴリン・バード探検隊のスキーのエキスパート、犬の訓練士、無線技士として活躍しました。
ロンネ自身率いる探検は、1947年~48年の私的資金援助によるロンネ南極調査探検隊で、このときストーニントン島で越冬をしました。彼の妻エディスも探検に同行し、南極で越冬した最初の女性2人のうちの一人となりました。ロンネ氷棚は彼女のために名付けられてもいます。ロンネは南極半島中部の広範囲な調査を行い、南極が本当の大陸であるということを裏付けるのに大いに役立ちました。

南極の探検史

ジョン・ライミル(John Rymill) 1905年~1968年
ライミルは、1934年~37年にかけて英国グラハムランド探検を率いるまでに、同志のジーノ・ワトキンスと一緒にカナダへ1回、グリーンランドへ2回の、合計3回北極探検の経験を積んでいました。彼のグラハムランド(南極半島中部)探検は地理的に重要な意味を持っていました。なぜなら、グラハムランドが群島ではなく、大陸の一部である半島だと証明されたからです。英国グラハムランド探検では、ライミルは、調査を行うために、伝統的なソリと、飛行機という最新技術を合わせて利用しました。第二次世界大戦の海軍予備員としての軍務の後、彼は彼の出生国オーストラリアで農業を営み余生を過ごしました。
サー・ビビアン・フックス(Sir Vivian Fuchs) 1908年~1999年
国際地球観測年(1957年~58年)に南極への関心が復活し、イギリスの探検隊はシャクルトンが40年以上前に試みようとしたことに挑戦しました。イギリス連邦南極横断探検隊は、ビビアン・フックスの指揮のもと、1957年11月、6台の雪上車を使ってウェッデル海の近くから横断を始めました。一方、ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーはロス海側から南極点までデポ(物資集積所)を置きました。1958年1月20日フックス隊は南極点に到達しました。2月9日両隊は南極点を発ち、3月2日ロス海側のニュージーランドのスコット基地に着きました。その移動距離は99日間で3,472kmを超えていました。フックスは、入念に計画を練り、人間の忍耐力よりも信頼のおける効率的な機械を使いました。1958年から73年にかけて、彼はイギリス南極観測所所長を務めてもいます。
サー・エドモンド・ヒラリー(Sir Edmund Hillary) 1919年~2008年
エドモンド・ヒラリーは、テンジン・ノルゲイとともに、1953年にエベレストの人類初登頂に成功したことでよく知られています。その後、彼はネパールで医療や教育に尽力しました。その一方で、1955年~58年にイギリス連邦南極横断探検に参加し、ニュージーランド人として南極探検に重要な役割を果たしました。この探検で、彼は南極氷床高原の新しいルートを開拓し、改造した農耕用トラクターを使って南極点まで到達しました。ヒラリーは1967年に再び南極圏へと戻り、ロス海地域で初となるハーシェル山の登頂を指揮しました。

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