スミーレンブルグ (Smeerenburg)
北緯79°7’東経11°30′

ここは歴史的にも意義のある長さ約20km、幅約4kmのスヴァールバル諸島西北端と島の間にあるフィヨルドです。アムステルダム島にあるオランダの捕鯨基地があるスミーレンブルグから名づけられました。

このフィヨルドは、南に延び、ソルガテットサウンドとビョムフィヨルドに別れています。ソルガテットサウンドは、スピッツベルゲンの西沿岸に繋がる海峡で、ビョムフィヨルドには、中規模の氷河やスミーレンブルグブリーン(ブリーン = 氷河)の海岸氷河に面しています。また、いくつかの小規模な氷河の崩落が、スミーレンブルグフィヨルデン東部の海岸氷河沿いであります。このフィヨルドでは、美しい風景の中、野生動物を探しにゾディアッククルージングなどが出来ます。

 

スミーレンブルグ

オランダの捕鯨漁師たちによって名前がつけられたアムステルダムーヤ(アムステルダム島)がその南端にあるスミーレンブルクと同じ場所にあります。

かつて周辺はホッキョククジラの集まる場所だったため、1614~1671年頃オランダ系会社による捕鯨が盛んに行われました。その中心であるアムステルダム島スミーレンブルグには、皮下脂肪を抽出するための捕鯨基地が置かれていました。最も盛んだった1633年からの10数年間の毎年夏には200人以上の人が捕鯨に従事したと言われています。

今でもその頃の痕跡が数多く見られ、近くにある基地付属の墓地は捕鯨時代最大規模で、現在225基が分かっています。もっと多かったのですが、浸食作用のために海に流されたものも多いようです。

 

アムステルダム島/ゾディアッククルーズ

さらにスミーレンブルグのちょうど向かいには、1896~1897年スウェーデンのサロモン・アンドレが熱気球で北極点を目指した際の野営地があります。1897年、彼の最後の挑戦は事故が起き、彼の試みは失敗に終わります。事故の中、幸い乗組員は、生き延びることができましたが、最終的に死亡したことが分かりました。そして彼らの遺体や写真などの遺物は、33年後に発見されました。

 

 

ワースレーネセット(Worsleyneset)
北緯79°69’東経13°67′

ウッドフィヨルド北部とリーフデフィヨルド合流地点に突き出た、南部の岬がワースレーネセットです。 南極へシャクルトン隊にも同行し、1925年の北極探検隊の船長でもあったフランク・ワースレーの名を称えるために付けられたものです。

 

ワースレーネセット/ゾディアッククルーズ

最高地点がわずか95mのこの平地は広さ約250㎢ほどで、狩猟時代の狩猟小屋、動物の骨そして廃棄された罠などが残っています。

 

ホッキョクグマ/ワースレーネセット

トナカイ平原の名前が表わす通り、草を食べるトナカイが見られた場所だったのでしょう。ムラサキハマシギやアビ、トウゾクカモメ、ケワタガモなどもみられるでしょう。

 

 

モナコ氷河(Monacobreen)
北緯79°5’東経12°55′

海洋学の始祖、モナコ大公アルベール1世は1906年にスヴァールバル諸島を探検しました。卓越した写真技術を利用し、この氷河の位置や形状を正確に記録しました。「モナコ氷河」の名前は、アルベール1世の功績を讃えてモナコ公国に由来しています。

 

モナコ氷河/ゾディアッククルーズ

この壮大で美しい氷河は、幅約5kmでスピッツベルゲン島北岸のリーフデフィヨルドに氷山を押し出しています。後退した今ではヌナタク(岩峰)を挟んで2つの部分に分かれています。

先端の崩落面ではミツユビカモメやキョクアジサシなどが、氷河の底の部分が融けて湧き上がる水と共に水面近くに上がってきたプランクトンを狙って集まっています。

 

 

フグルスタイネンとヴィルゴハムナ(Fuglesteinen & Virgohamna)
北緯79°7’東経10°9′

スピッツベルゲン島の北西沖に浮かぶアムステルダム島とダンスク島(デンマーク島)との間に浮かぶ小さなフグルスタイネン島には数千羽と言われるヒメウミスズメの巨大な営巣地があります。

 

ヒメウミスズメ

ダンスク島の北岸にあるヴィルゴハムナは北極探検史上重要な意味がある場所です。ここで忘れてはならないのがスウェーデンの探検家ソロモン・アンドレー隊の悲劇でしょう。

スウェーデンの特許庁エンジニアであったソロモン・アウグスト・アンドレーはスウェーデンのイエテボリを基点に9回ほど水素気球の経験を積んだ後、当時のハイテク技術を集めた水素気球で北極点経由カナダまたはロシアへの北極海横断飛行を目指して同行のニルス・ストリンドバーグ、ヌート・フレンケルと共にここ、ヴィルゴ・ハーバーから1897年7月11日に出発しました。ところが、2度ほど伝書鳩を送りましたが、3名は音信不通となってしまいました。

様子が分かったのは33年も後の1930年8月6日に、諸島東端にある離れ島クヴィトーヤで滅多に来ないセイウチ猟船が偶然、濃霧の中で彼らの遺体と共に克明に記された日記、まだ現象可能な写真板などの装備を発見したのです。

彼らの残した綿密な測量記録と日記によると、出発2日後には水素が漏れ始めた気球オーネン(ワシ)号は飛行10時間30分後、氷面に接触しながらの超低空飛行を41時間も過ごした挙句、7月14日北緯83度、東経30度付近の海氷上に不時着してしまいました。

3名の装備は無事でしたので、氷上テントで1週間ほど準備をした後、起伏の多い海氷上を人力そりで南に向かいました。毛皮を持たず、羊毛製品の衣類と防水加工したキャンバス地の合羽だけの服装で、主食はシロクマやアザラシの肉で、寒さと湿気に悩まされる日々が続きました。

 

ホッキョクグマ

氷上越冬を覚悟しましたが、約3か月後の10月5日に乗っていた氷板が偶然にも船ではめったに来ない諸島東端のクヴィトーヤに近づいたのでやっとのことで島に這い上がりました。

しかしその2週間後には3名とも死亡していたようです。下痢で体調を崩し、常に疲労と寒さに悩まされており、衣類の様子からストリンドバークがホッキョクグマに襲われた事以外、直接の死因については長い間議論の的でした。

ホッキョクグマの半生肉を食べた事による施毛虫症、栄養不良と疲労など色々な説がありますが、死体が荼毘に付されているので、未だに決定的な結論を出せていません。

ソロモン・A・アンドレーら3名が行方不明になっている間の1907年にはアメリカ人のジャーナリストでフランツヨーゼフランド探検経験(1898〜1899年)のあるウォルター・ウェルマンが同じヴィルゴハムナの基地から飛行船での北極点飛行に挑戦しました。1906年、1907年とエンジンが不調で、3回目の1909年も故障のせいでスヴァールバル諸島から約100km飛行したところで引き返しています。アンドレー基地の西にウェルマン基地跡があって、ドラムカンや格納庫の遺品などが散らばっています。

 

 

フグルフィヨルデン (Fuglefjorden)
北緯79°72’東経10°9′

スピッツベルゲン島最北部に口を開けるフグルフィヨルデンは、背後の大きなスヴィチョ氷河が後退して出来たフィヨルドです。フィヨルド出口付近には、周りの地層とは全く異なる驚くほど大きな岩がいくつも終堆積の間に見えます。これらの氷河が長年の間に内陸から運んだ標石(迷子石)ですが、今では大幅に後退した氷河先端部分から遠く離れた場所に取り残されています。

 

ニシツノメドリ

キョクアジサシ、ニシツノメドリ、ヒメウミスズメそしてそれらの天敵であるシロカモメやハラジロトウゾクカモメなどが良く見える場所です。

 

 

サマリンヴォーゲン (Samarinvågen)
北緯76°95’東経16°24′

サマリンヴォーゲンはスピッツベルゲン島、ホルンスン氷河の南にある湾です。サマリンヴォーゲンは地質学の特徴から隔離された場所です。この湾に到着すると、まず壮大なサマリン氷河や流氷に目を奪われることでしょう。

 

アゴヒゲアザラシ

サマリンヴォーゲンで見られる浮氷は、アゴヒゲアザラシのお気に入りの場所です。

 

ミツユビカモメ

また、鳥類も見どころとなります。

 

 

ラウドフィヨルド(Raudfjorden)
北緯79°75’東経12°05′

フィヨルド東側の海岸にデヴォン紀のものと考えられる赤い岩層がある事からこの名が付いたラウドフィヨルドはスピッツベルゲン島北岸に切り込んだ、幅5km長さ約20kmのフィヨルドです。奥へとクリンコウストロムフィヨルドとアイヤーフィヨルドに分かれています。

 

スヴァールバルトナカイ

ラウドフィヨルドはハイキングやゾディアックルーズ、カヤックなどに絶好の場所です。海岸沿いではトナカイ、ワモンアザラシ、アゴヒゲアザラシなどを観察できるでしょう。けなげに咲くツンドラの花々には感動させられます。上陸地では専門家から興味深い解説を聞いたり、ハイキングを楽しめます。