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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

フォークランド諸島

南大西洋におけるイギリスの入植地フォークランド諸島は、1592年8月に偏西風に煽られて航路をはずれたイギリスのスループ帆船デザイア号の船長、ジョン・デイビス発見しました。但し、記録に残る初上陸は1690年にジョン・ストロングがやはりイギリスのスループ帆船ウェルフェア号で来た時でした。
実は、ストロングは当時交戦状態にあったフランスの船舶を狙って海賊行為を行っていたのでした。

この諸島が、その当初の名前である「フォークランドの地(Falkland’s Land)」の名前をもらったのは1708年の事で、それはやはり海賊船長のウッズ・ロジャースがイギリス初代海軍提督フォークランドに敬意を表して「フォークランドの領土」と命名したからでした。この群島に人々が住み着く様になったのは1764年になってからで、この年フランスの探検家ブーゲンビルが東フォークランド島のポートルイに小規模の入植地を設けたのです。
それからまもなく1765年にはイギリスの遠征隊が領土権を実行する為に北西部のサンダース島のポートエグモントに独自の入植地を開設しました。
当初は両国ともお互いの存在を全く知らなかったのです。

フランス隊はこの群島を多くの乗組員の出港地であるサンマロー(St.Malo)の港にちなんで「マルイーヌ諸島(Isles Malouines)」と命名しました。
この名前の名残が現在アルゼンチンで使用しているフォークランド諸島のスペイン語名「マルビナス諸島(Islas Malvinas)の源となりました。

その後、70年間、フォークランド諸島は、スペイン、イギリス、そして南米系スペイン人による短期間の居住と宗主国が変わりました。
そのうちのおよそ20年間は主にアメリカからやってきたオットセイ猟師や捕鯨漁師の基地として利用されていました。
1832年には、三隻のアメリカ籍オットセイ猟船がアルゼンチン人に拿捕された報復として、アメリカの軍艦レキシントンが小規模だったアルゼンチン入植地を略奪しました。フォークランド諸島のイギリス人の永住が始まったのは1833年からで、この年に、総督も就任しています。
1845年には新しく首都を定め、当時のイギリス植民地担当国務長官の名を付けてスタンレーと命名しました。
次の歴史に残る事件はずっと時代が下って、 1982年4月2日、アルゼンチン軍が侵入し全島を占領した事です。直ちにイギリスから機動部隊が駆けつけ、11週間後には12,000名のアルゼンチン兵士(その多くは訓練も装備も不十分な徴集兵)が投降し、住民の圧倒的な支持を得てイギリスの主権は回復されました。
フォークランド諸島の産業は長い間、主に船舶の修理、オットセイ・アザラシ猟、捕鯨、ペンギンの製油業などでした。その後イギリスから牧羊(羊毛業)が持ち込まれ、それがその後のフォークランド諸島の経済を支配する様になりました。しかし今日世界的に羊毛の価格が低落傾向にあり、現在の主力収入源は周辺海域での大規模なイカ漁や漁業の入漁料収入です。漁船のほとんどは、ヨーロッパやアジアからのものでその中にはアルゼンチン船籍を有するものも少なくありません。また将来的には海底油田からの大々的な収益も見込まれている様です。

フォークランドの典型的景色は、低い灌木が混じった湿原です。原生の木はありませんがハリエニシダ灌木や若干の木は、防風の為に移植したものです。

(南極旅行&南極クルーズ2-2)