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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

南極的平和:南極条約と国際協力の時代

南極の歴史において、この時代は南極条約と共に始まりました。国際地球観測年の最も著しい収穫の一つは、南極における科学観察の国際的協力が非常に効果的だった事と1958年に設立された特別(後に科学と変更された)南極観測委員会でした。
この委員会は他のいくつかの要素と併せて各国の討論を活発に行う事で、それの集約が1959年の南極条約に関する討議でした。当時南極大陸に基地を置き活発に観測活動を続けていた12カ国(アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、英国、チリ、フランス、日本、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、ソ連、アメリカ)がこの討議に参加しました。南極条約は1961年までに各国で批准され、南極大陸をめぐる問題に多大な影響を及ぼしています。

但し、この時期、南極大陸に関する問題は基本的に学者たちに任されており、南極大陸と関わりのある国家のみの関心事となっていました。1983年以後、国連が南極大陸問題に関心を見せ始め、南極に余り関わりの無い国々も議論に加わる様になり、激しい論争が行われる様になりました。「南極協定」時代は南極大陸が基本的に科学的目的の為に利用されるべきだという概念で終わっていたのですが、南極条約的平和(Pax Antarctica)時代がはじまると、協約が適用される地域により強い力をもつ条約が影響を及ぼす様になりました。(皮肉な事に特に1944年以降は人口比からいっても南極大陸はもっとも高軍備の大陸であり続けたのですが)この時代 “冷戦” に伴って秘かな軍事作戦が南極大陸でも繰り広げられていたのです。

南極条約の加盟国が増加するにつれて、南極大陸の歴史はより複雑なものに変わって来ています。(2015年現在50カ国が加盟し、当初の4倍以上の数に達している)非公式の協力体制のパターンに取って代わって次第に様々な規制が増えて来ています。
国際的にはそれも又南極条約を土台に発効するということを明白にしたものなのですが、様々に形を変えた“実施基準”やその他の強制的であったり助言調だったりする数々の条文などが次々と加えられていきました。
これに呼応して、各国に於いても新たな国内法が制定され、南極大陸の鉱物資源や生物資源などの開発、そしてさらにその結果ともいえる、南極という極限の環境の保全などが各国の主要な関心事になっていったのです。特に1980年代後半にはその事が多大な議論要因となり、1989年には52の越冬基地が建設されて観測が行われる様になりました。(特に過剰ともいえるサウス・シェトランド諸島の基地建設ラッシュがその顕著な例です。)

そして一般大衆にとっても南極に関する多くの書物、映画、トンV番組が身近になり、地球最南端の大陸の驚異があまねく知られる様になりました。
1966年には近代的な形の南極ツーリズムが開始されました。勿論初期にはまだ数える程の観光客しかいませんでしたが、南極への憧れや関心が増加し、特に以前はソ連が国有していた砕氷船を含む船舶が南極周遊に使用される事が可能となった事が刺激となり、観光客の関心は多大なものに変わってゆきました。(ソビエト連邦の崩壊による変化は同時に北極へのアクセスをも容易にしてくれました)
数年に亘って多くの国が自国による発見、占有、地理的近接性に基づいて南極大陸の領土権を主張してきました。今日なお七カ国が公的に南極大陸の一部領有を主張しています。アルゼンチン(1943年主張)、オーストラリア(1933年)、チリ(1940年)、フランス(1924年)、ニュージーランド(1923年)、ノルウェー(1931年と1939年)、イギリス(1908年)の七カ国です。この主張は北極で確立されたセクター主義に準拠しており、南極点に向かってくさび形に線引きするものです。(もっともノルウェーの主張は南極点には及んでいません)

イギリス、アルゼンチンおよびチリの主張領土は重なりあっていて長年の紛争の原因となっています。アメリカ、ロシアは南極大陸における自国の領土権を主張しておらず(将来的に主張する権利は保有していますが) 他国の主張も認めていません。

(南極旅行&南極クルーズ3-7)