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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

アザラシ・オットセイ猟者と科学者たち

クックやケルゲルンの航海記録が発表されてから1900年初頭までの時代に、南極を訪れた人たちは主にアザラシ猟師で、彼らは数多くの亜南極諸島を発見し、上陸した他、いくつかの島では越冬までしていた様です。
彼らはまたその周辺の海域でも活発な活動を続けていました。
例えばトリスタン・ダ・クニア、フォークランド諸島(イスラ・マリビナス)、ティエラ・デル・フェゴ、スチュワート諸島、タスマニアなどがあげられます。
アザラシ猟が最も盛んだった時期は1800年代の初頭から半ばにかけてで、アザラシ猟師のほとんどがイギリス、英領南アフリカ、フランス、英領ニュー・サウス・ウェールズ、ニュージーランド、タスマニアおよび米国北東部などからでした。
1820年に南極大陸に初めて上陸したのもアザラシ猟者であり、最初に越冬を果たしたのも猟師たちでした。(特に1821年と1877年の例では猟師たちはやむなく越冬したのでした。)その為こうした亜南極諸島には彼らが残した小屋や、雨風をしのいだ洞窟、鯨油精製器、お墓、遺留物などがかなりの数で残っています。

ロンドンの交易商社、エンダビー兄弟商会は探険とビジネスを結びつけた商社として有名です。彼らはジェームズ・コルネット(1792~94)、アブラハム・ブリストウ(1805~06)、ジョン・ビスコー(1830~33)、ジョン・バレニー(1838~39)といった人間を次々と探険航海に送り出し、中にはかなり重要な発見をなしたものもありましたが、まったく成果があがらなかった航海もありました。
サミュエル・エンダビーは1849年にオークランドを植民地にしようとしましたがその試みは僅か18ヵ月後に廃棄され、最も短期間の英国植民地となりました。
ウィリアム・スミスに率いられた英国商船ウィリアムズ号は1819年暴風雨によって南に吹き流されサウス・シェトランド諸島を発見し、更に膨大な数のオットセイの群れを発見しました。これがいわゆるアザラシ、オットセイ猟の「ゴールド・ラッシュ」の引き金となり、アメリカや英国の猟師たちが続々と押しかけ、3度目の夏が来る頃にはその一帯のオットセイは全滅に近い状態になったのです。
新たな猟場発見のニュースは短期間で世界中に広まり、1821~22年の夏場には90隻のオットセイ猟船がサウス・シェトランド諸島の周りで操業を続けていたのです。
そしてオットセイの数が激減すると、リビングストン島の辺りでは猟師同士の対立が激しくなり、彼らは僅かに残ったオットセイを捕獲するより、互いに棹で殴りあったりする方が多くなったのです。

オットセイ猟師たちは自分たちの乱獲のせいで獲物がいなくなったのではなく、オットセイの群が別の場所に移動したのだと思い、次々と新たな猟場を探して様々な場所に船を進めて行きました。ただ歴史的に残念な事は、彼らは競争相手に新たな猟場を知られるのを嫌い、自分たちの発見を秘密にしたため、この頃の記録はほとんど残っていないことです。彼らがそれらの土地に足を踏み入れた証拠は、岩や墓に記された文字や、数少ない漂流物、島々にまばらに残された航海日誌の切れ端などから推測するしかありません。

時代の変化と共に、時にはオットセイ猟が中断される事もありました。
すなわち戦争により米国のオットセイ猟船が減った時、カリフォルニア、オーストラリア、ニュージーランド、パタゴニアなどの本物の「ゴールド・ラッシュ」で猟師たちが今度は金を求めてそれらの地に散っていった時、糞か石肥料が産業となった時、などです。残念な事にオットセイ猟師たちの異常ともいえる乱獲のため、最初はオットセイが絶滅に近い状態となり、次にはゾウアザラシの数が激減していったのです。
ただ喜ばしい事に現在ではオットセイもゾウアザラシもほぼ乱獲前の個体数まで回復してきています。(特定の島々に限って言えば、むしろ以前より個体数が増加していると推測されています)

オットセイ猟者は南極圏の毛皮から膨大な利益を得てきましたが、数の激減で産業としてなりたたなくなると、今度はゾウアザラシが対象となりました。ゾウアザラシ猟の場合はオットセイ猟と全く異なり、厚い皮下脂肪から油を絞りとる事だったのです。
ゾウアザラシの皮をはいで「三本脚の茹で鍋(200リットル)」を火にかけて煮詰め、その後それを絞って油を精製するのです。中にはその作業を昔ながらのかなり危険な状況方法で(「白鯨」参照)船の中で行う場合もあり、浜辺で行う場合もありました。しかしゾウアザラシの油精製産業はそれ程利益にはならず、細々と続けられていましたが次第に衰退していきました。1922年には最後の南極アザラシ猟師と言われるウィリアム・A・グレイバーがケルゲルン島から母港であるニュー・ベッドフォードに戻ってきました。ゾウアザラシ猟が隆盛をきわめていた間も、不運に操業中の浜辺にたどりついたオットセイもその場で殺されてしまった為、それがオットセイの個体数の回復を遅らせる要因ともなりました。当時の製油産業の様子をほうふつとさせる残留物の中で一番目立つのはたくさんの三脚油精製鍋でこれらは現在でも亜南極の島々の浜辺で見る事が出来ます。
オットセイ・アザラシ猟の隆盛期間は1世紀に亘って続きましたが、その期間1200隻のアザラシ猟船が南大洋に船を進めました。この期間の探険航海はわずかに24回程を記録するのみですが、それでもこれらの航海のいくつかは科学的に多大な貢献をなしてきたのです。

もちろんこの期間アザラシ猟師や数名の探検家による発見があり、南極大陸への少なくとも5度の上陸はオットセイ・アザラシ猟師によってなされたものです。
但し彼らはそれらの土地でアザラシを発見出来なかったため、歴史的に重要なこうした航海の記録は断片的にしか残っていません。
やはりアザラシ猟師だったジェームズ・ウェッデルが後にウェッデル海として知られる海域の南緯74°25’まで到達し、その膨大な航海日誌がサウス・シェットランド諸島のアザラシ猟の最盛期が過ぎた後に発表されました。
ウェッデルと対照的に、新猟場の発見を発表する事は自分たちの不利益になると信じる他の猟師たちは、ほとんど自分達の航海の模様を発表する事はありませんでした。

この時期、国家的事業として科学調査目的の南極探検が開始され、1837年から40年にかけてはフランスが、1838年から42年にかけてはアメリカが、1839年から43年にかけて英国が探険隊を派遣し、その主要目的である南磁極の発見を目指したのでした。

フランスの デュモン・デュルビルの探険隊は世界一周航海を果たしましたが、その間二度の夏を南極海域で過しています。その航海でサウス・オークニーとサウス・シェトランド諸島の地図を作成し、特別に美しいエレファント島を描いたものなど数枚のスケッチも残されています。
二度目の夏にはアデリー・ランド(東経140°近辺の南極大陸)を発見し、フランス領土と宣言しました。その領土とアデリーペンギンの名前は、デュルビルの妻の名前(アデールAdele)をつけたものです。

チャールズ・ウィルクス率いるアメリカの探険隊も世界の隅々まで航海を重ねていましたが、南極への航海はその偉業のほんの一部を占めるものでしかありません。
最初の夏にはサウス・シェトランド諸島を短期間訪れ、次にその先のサーストン(トンhursトンon)島を目指したのですが距離が遠すぎた上に氷に阻まれて航海を断念せざるを得ませんでした。二度目の夏は現在ウィルクス・ランドと呼ばれる大陸の沿岸の大部分を発見し、近くのいくつかの島に上陸を果たしました。
この頃のフランスと英国の南極探険には不思議な出来事が起こっています。
両探検隊は1840年1月30日に南極沿岸でお互いの船を目撃したのですが、理由がはっきりされないまま、連絡を取り合う事が無かったのです。

英国の探検隊(1839~43)は、ジェームズ・クラーク・ロスが率いたテラー号とエレバス号でやって来ました。例年になく海氷が少ない年で難なくロス海に入り、大陸のビクトリア・ランド(ロス海西岸部分)を測量し、エレバス火山を発見し、更に南の「偉大なる氷の壁(ロス棚氷)」の前で停まりました。後に発行された同探検隊の海図にはアデア岬やロス島、マクマード入江など、内陸への探険を含む後世数々の探険で大きな意味を持つことになる場所が記載されました。

これら三国の南極探険は、いわば国同士の競争の様を呈していました。
それとは対象的に1874年の金星の太陽面通過を機会に広範囲な国際協力がなされ、フランス、英国、ドイツ、米国の探検船がセント・ポール島、ケルゲルン島、キャンベル島、オークランド諸島などから観測したのでした。
最初の国際極年(1882~83)の行事は主に北極でなされましたが、1年間に亘ってサウス・ジョージア島のロイヤル湾にドイツの観測基地も置かれました。
この初期の国際的共同観測は南極にとっても非常に重要な結果をもたらしました。
この期間、南極の海図は著しい進歩を見せました。アザラシ猟の拠点として重要な位置をしめたオークランド諸島が1807年、キャンベル島とマッコーリー島が1810年、サウス・シェトランド諸島が1819年、サウス・オークニー諸島が1821年、ハード島が1853年に海図に示されたのです。ピーター一世島(1821)やバレニー島(1839)も発見されたのですが、そこにはアザラシが生息していなかった為、何の興味も抱かれなかったのです。多くの船がオーストラリアやニュージーランドから、より遥かな南をめざして航海に出発しました。1830年代50年代、60年代には、予想を超える数の氷山が見られたとの記録が残っています。

(南極旅行&南極クルーズ3-3)