捕鯨時代シャクルトン最後の地
 
かつて捕鯨が盛んだった

サウスジョージア島は1675年にアンソニー・デ・ラ・ロッシュが最初に発見したと言われています。その100年後の1775年、キャプテン・クックによって再発見され、イギリスが領有を宣言しました。サウスジョージアという名前は国王ジョージ三世にちなんで付けられました。

それ以降、クックのオットセイがいるという報告により多くの狩猟船が押し寄せてきました。アザラシやオットセイは油の原料として乱獲され、ほぼ絶滅状態となってしまいました。その後、捕鯨基地が作られ、鯨も油の原料のため乱獲されました。

油の貯蔵タンク

サウスジョージアのグリトビケンには、廃墟と化した捕鯨基地が今も形を残しています。

 

シャクルトン最後の地

サー・アーネスト・ヘンリー・シャクルトン(1874年2月15日~1922年1月5日)はイギリスの極地探検家です。1914年シャクルトンが隊長となって率いる帝国南極横断探検隊は、エンデュアランス号に乗り出港しました。南極大陸横断を目指しましたがウェッデル海で遭難し、船から脱出したシャクルトンらはエレファント島にたどり着きました。しかし、絶海の孤島のため誰も救援には来ません。1916年4月24日嵐のスコシア海を救命ボート「ジェイムズ・ケアード号」で約1,330km離れた捕鯨基地のあるサウスジョージア島に救援を求め船出しました。

 

ジェイムズ・ケアード号の複製

2週間後ようやくサウスジョージア島のキング・ハーコン湾に着いたのですが、捕鯨基地とは反対の場所。シャクルトンは体力の残っている3人の隊員を連れて険しい山岳地帯を横断し基地で救助を得ることができました。1916年8月30日4回目の救援で島に残された隊員も救出され、誰一人死者を出さず隊員全員帰還することができました。

 

最後の南極遠征

シャクルトンは再び南極横断を目指します。この遠征には、シャクルトンの旧友のローウェットが資金提供をしました。1921年9月24日、サウスジョージア島に向けてクエスト号に乗り、イギリスを出港しました。1922年1月4日、サウスジョージア島に無事到着します。しかし、その翌日に心臓発作に襲われ急死してしまいます。シャクルトンの遺体は夫人の意向により、サウスジョージア島のグリトビケンに埋葬されました。それから90年後の2011年11月27日、彼の右腕であったフランク・ワイルドの遺灰はシャクルトンの墓の右側に埋葬されました。シャクルトンの墓のそばに埋葬されることは、彼自身の願いでした。

シャクルトンは今もサウスジョージアに眠っています。