デセプション島(Deception Island)
南緯62°57′西経60°38′

 

サウスシェトランド諸島の南端、ブランズフィールド海峡の海底に口を開ける活断層部分にあるのが南極では珍しい活火山の島デセプション島です。1万年程前に大きな火山の頂上部分が大噴火後陥没し、そこに海水が流れ込んで、水面上が直径約15kmの馬蹄形をした島となりました。1820年頃オットセイ猟船が嵐の中、避難所を求めて島をほぼ一周した後、思いがけず現在ネプチューンズ・ベロウズ(水神のふいご)と呼ばれる風が強く吹く狭い水路を見つけて内海に入りましたが、入り口が無いと思っていたのに騙されたとしてデセプション(欺き)の名を付けたと言われています。

 

内海は1828~29年にここで地球の重力観測をした英科学者ヘンリー・フォスターにちなんで現在フォスター湾と呼ばれています。島のあちこちに噴火の火口跡が残っています。20世紀初期の捕鯨船や探検家もしばしば「海水が沸き立って船のペンキがはげた。」や「硫黄の匂いがする。」などの記録を残しています。

 

最後の噴火は1967~70年にかけての数回で、最も奥にあるテレフォン・ベイには2つの大きな火口が残っています。1967年の噴火でペンデュラムコブにあったチリ基地が、1979年にはホエラーズ・ベイの捕鯨基地跡に建てられた英基地が埋まってしまいました。その後も何度か活発化、沈静化を繰り返しており、今でも内海の数箇所では地熱に海水が温められて波打ち際に水蒸気が立つのが見られ、フォスター湾の海底も年に30cm程度ずつ隆起しています。

海から立つ水蒸気

内海の南岸にスペインとアルゼンチンの夏基地があり、島中に設置されている自動地震測定機と共に注意ぶかく火山活動を見守っています。

スペインの夏基地

デセプション島は南極半島探検の最初から登場し、オットセイ・アザラシ猟、捕鯨そして観測の時代へと移り変わる各時代で重要な役割を果たしてきました。1908年に領有宣言をして以来ほぼ全時代にわたり、英国が覇権を握り、デセプション島を含めた南極半島周辺で操業する捕鯨船や捕鯨基地に入漁料や借地料を課していた時期もあります。

1912年、ホエラーズ・ベイに開設したヘクター捕鯨基地では毎夏150~200人が働き、14万バーレルの鯨油を出荷しましたが、1920年代中頃の母船式遠洋捕鯨への切り替えで、誰にも規制されない公海での捕鯨による鯨油の生産過剰と世界恐慌の影響により、1931年にはここを含む多くの捕鯨基地が閉鎖されました。

捕鯨基地跡

その間1928年12月にはここからヒューバート・ウィルキンス(オーストラリア)が南極最初の飛行機で飛び立ち、1935年には初の南極横断飛行の出発地にもなりました。いまでも捕鯨基地跡の隣に旧格納庫が見られます。

格納庫跡

第二次世界大戦中の1940年にはチリが、そして2年後の1942年にはアルゼンチンが、既に英国による領有宣言済みの南極半島部分を重複して領有宣言したのに加え、ノルウェーの捕鯨船が南インド洋でナチスドイツのU-ボートに拿捕される事件が続発し警戒心を強くした英国は、ポート・ロックロイ(A基地)、デセプション島(B基地)およびホープ湾(C基地)に気象観測と他国の進出を見張る基地を開設し、戦後追加された他の18基地と共に1967~70年の火山による破壊まで活動を続けました。       

南極領有権をめぐり、1952年2月にはホープ湾で駐留していた英・アルゼンチン両海軍の間で発砲事件も起しています。現在ホエラーズ・ベイの捕鯨基地跡と背後の英基地跡そしてペンデュラムコブのチリ基地跡は南極条約に基づく史跡に指定されています。

ホエラーズ・ベイは1967~70年の噴火に伴う土石流で地形が大きく変化したとはいえ、黒砂海岸の間には鯨油出荷用の樽の部品、修理に使われた浮きドック、燃料・鯨油タンクそしてここで命を落とした捕鯨業者の墓標などがまだ見られます。

捕鯨基地跡のタンク

燃料タンク背後の廃屋は捕鯨基地閉鎖約10年後に廃材で建てられた英国基地(B基地)の残骸です。馬蹄形をした島の外洋側にはヒゲペンギンの営巣地が点在し、特にベイリー・ヘッドの大営巣地は減少傾向にあるとはいえ2013年の調査で4万羽と言われる規模です。周辺の崖にはユキドリ、マダラフルマカモメやアシナガウミツバメ等も営巣しますが、急深による大きな寄せ波のため上陸できる条件が揃うのは稀です。

 

◆デセプション島で見られる動物達◆

 

◆デセプション島の歴史◆

 

ⒸUK Antarctic Heritage Trust
ⒸRlindblad20171217