南極・北極旅行&クルーズ 株式会社クルーズライフ

  • ホ-ム > 
  • 南極クルーズ・北極クルーズの手引き

南極クルーズ・北極クルーズの手引き

北西航路の探求

新大陸が既に発見されてしまい、よほど強い意志と動機を持った者でない限り北極探検を説得できなかったでしょう、なぜなら氷の危険や恐ろしい暗闇の話が船員たちを恐怖で震えさせていましたから。
しかし、ヨーロッパから東洋の富に至る北東・北西航路の可能性がホーン岬周りや喜望峰回りの長い航路の代替えとして考えられるようになりました。金銭的な利得と冒険が魅力となり、航海技術の発達も相まって北極探検の時代が始まったのです。

最も偉大なオランダ人北極探検家の一人であるウィレム・バレンツが1594年に、北への3回の航海の内の最初の旅に出発しました。彼は並外れて卓越した航海士であるばかりでなく優秀なリーダーで、北極の冬を生き抜くための勇気を部下に与えた功績があります。
彼の3回目の航海は1596年ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルクが船長を務める船の水先案内人として出発しました。スカンジナビア半島沿いではなくまっすぐ北に向かい、小さな島を見つけ、そこで大きな白い熊を撃ちました。彼らはその島をベア島(熊島)と名付けました。
彼らが発見したのは実は現在のスヴァールバル諸島の南沖にある離れ島で、その諸島最大の島はスピッツベルゲン(険しい山)と名付けられました。
霧と雨に閉じ込められて陸が良く見えないままスピッツベルゲン島の北西の端(北緯79度49分)に至りました。バレンツ唯一の誤りはグリーンランドに着いたかもしれないと思った事でした。
航海は東のゼラニヤ岬を回りノヴァヤゼムリャの北端に至りました。やがて秋が近づき船は氷に閉じ込められてしまい、陸上に越冬小屋を建てざるを得ませんでした。彼らは冬中そこに留まる間に一酸化炭素中毒で死にかけた事もありました。
バレンツは越冬を無事終えた翌年帰途に就くべく海に乗り出した直後の1597年6月に死亡しました。彼らは記録的な最北端越冬を生き抜いたのです。
エリザベスI世の時代に英国は多くの航海士を送り出し、地理的知識の限界線を主に北西方面に向けて押し広げていきました。マーティン・フロビッシャーはバフィン島の南端を探検し、金鉱を探そうとしましたが、本物は出ませんでした。

その十年後、ジョン・デイヴィスはグリーンランドとカナダの間にあって現在彼の名前が付いている海峡を発見しました。
(彼はその後南半球へ行き、フォークランド諸島も発見しています。)
次に北極探検に少なからず貢献した二人はヘンリー・ハドソンとウィリアム・バフィンです。両者とも同じディスカヴァリー号を使い、同じロバート・バイロットを部下として、ロンドンの冒険好きな船主たちが後援者でした。
このグループは組織的に全ての航路を試し、是が非でも中国への航路を発見するべく決意を固くしていました。

ヘンリー・ハドソンは3回の内の最初の航海(1607年)で、グリーンランド、スピッツベルゲン、ヤンマイエンそして現在のハドソン河を探検し、最後に危険なハドソン海峡を越えてヨーロッパ船では初めてハドソン湾に入りました。
しかし、冬が近づいて来た時にディスカヴァリー号は氷に閉じ込められてしまいました。翌年6月になって氷から解放された時に反乱が起こってしまったのです。
健康な船員6名は病気の4名に貴重な配給食を分けるよりは見捨てる事に決めましたが、ハドソンはその考えに同意しなかったため捕らえられてしまいました。
彼は同行の息子、忠実な船員そして病気の船員と共にほとんど食料もなしにボートに乗せられて遺棄され死んでしまいました。
ディスカヴァリー号がディッジ岬に着いたとき、反乱組の中心人物5人は武器を持たずに上陸したところ、原住民に攻撃された傷がもとでて数日のうちに死に、すばやい正義の鉄槌が下ったのです。
反乱派唯一の生き残り士官バイロットと船員は英国に帰還しました。

バイロットが雇い主に何を話したかはわかりませんが、彼は再びディスカヴァリー号で今度はウィリアム・バフィン指揮下で出航しました。バフィンは卓越した航海技術で出世した、たたき上げの探検家で、大胆かつ科学を重んじる人でもありました。
航海術や天文学を良く知り、海上で月距離法 を使った最初の人でもありました。彼の北極海最後の航海では、以後236年間も破られる事のない最北到達記録を打ち立てています。最新の航海技術と忍耐でバフィンは、デイヴィスの最北到達記録より300海里(556㌔)も北へ行くことができ、スミス海峡、ジョーンズ海峡、ランカスター海峡などへの入り口を見つけました。
これらの海峡はその後200年あまりも英海軍の探検海域となったのです。
船を南に向けた時途中で、トモシリソウ(ビタミンC欠乏症である壊血病の治癒力がある草)を採集して、壊血病の症状を見せ始めた船員に与えて健康を回復させました。
船は8月末に帰港しましたが、事の重要性を良く知らされていなかった本の出版社がバフィンの地図を入れるのは経費が掛かりすぎると判断して本に含めなかった為に、彼のバフィン湾発見は200年も世間に知られることがありませんでした。

17世紀の終り頃、ロシア帝国のピョートル大帝はヨーロッパのフランス、オランダ、英国を周遊し、北海に向けて航海するための何千と言う小型船の造船と出航風景を目撃しました。ピョートル大帝は漁業、鯨油、クジラヒゲの取引をしていたので、ヨーロッパ各国が北、南、西の海への新しい可能性に眼を向けている事を知ってはいましたが、ロシアとしては東の新しい土地に眼を向けました。
シベリアを調査するために調査員を2度派遣したり学者の話を聞いたりした後に、チュクチの土地がどの位先まで伸びているのか、もしかしたらアメリカに届く位かもしれないと思いはじめ大北方探検隊を派遣する事にしました。
隊長はヴィトゥス・ベーリングです。自らの死の6ヶ月前に大帝は探検隊の目的を次のように指示書に記しました。
「どこでアジア大陸がアメリカ大陸に出会うのかを知り、ヨーロッパ側の法治下にある集落を訪ね、途中でヨーロッパ船に出会ったら、聞いた海岸の名前を書き記し、上陸し詳細を得て海図を書き持ち帰る事。」

ピョートル大帝はこの探求が始まったばかりの1725年に死亡し、探検が終わった1743年にもまだ両大陸が続いているのか否かの答えは出ていませんでしたが、今日のベーリング海、ベーリング海峡、チュクチ海などの大北方探検隊による発見はその後の他の探検隊の形成と進歩の土台となったのです。10年にもわたる探検はロシア北極海沿岸全体を非常な正確さで測量しました。夏には北極海に注ぐ大河を航海して、冬には氷上をそりで旅をしました。

ジェームス・クック船長が第三次世界一周航海(1778)で初めてアジア大陸とアメリカ大陸は離れている事を確認しました。彼は出来ることならアメリカ大陸の北側かシベリア北極海経由でヨーロッパに帰りたいと思い、アメリカ大陸側を北上してみましたが、氷に止められ、アジア側も氷が立ちふさがっていました。
船がイースト岬と並んだ時、霧のためにベーリングには見えなかったものが見えたのです「アメリカ側のプリンス・オヴ・ウェールズ岬の近くに素晴らしい頂を持った丘が見え、アジア側のイースト岬との間に二つの島が連なったダイオミード諸島がある。」
ナポレオン戦争の終結と共に北極探検の熱が高まりました。
英国海軍は特にカナダ側の北極が中心でした。最初に派遣されたのはサー・エドワード・パリーで、まだ30歳にも満たない歳で1818年に一船を任されましたが、海軍歴は既に15年もありました。優秀な船員であると共に熟練の航海士のパリーは水理学と航海天文学に特に興味がありました。
航海術にたけており、筋骨たくましく、恐怖心を持たずしかも注意深い性格でした。1819年に、18歳から23歳までの若手士官のグループと共にヘクラ号とグライパー号で北西航路の探求に出かけました。幸運の女神も彼に味方したようです。グリーンランドのサンダーソン・ホープ近くの厳しい氷の状態にもかかわらず危険を冒してバフィン湾を横断してまだ探検された事の無いランカスター海峡に入りました。
海氷の間を周りの岸を測量しながら真西に向かい、西経112度近くの島に海軍大臣にちなんだメルヴィル島を名付けました。
そこで越冬しましたが、パリーは部下が身体的にも精神的にも健康でいられるように非常に気を遣いました。
天候が暖かくなった時にさらに西に進もうとしましたが、氷に閉ざされて引き返さざるを得ませんでした。
パリーは航海中の行動を英雄的と高く評価され、その後も2度北西航路探索をしましたが目的は達せられませんでした。
その後パリーの関心は北極究極の探検である北極点に転じました。

人類はかなり昔から、出来るだけ北の地を極めようと探検を始めました。
パリーは1827年6月、スピッツベルゲンから14名ずつ2組のチームで71日分の食料を持って出発しました。イヌイットのカマティク・デザインを基本にした特別仕立てのボート兼ソリを持ちました。
北緯81度13分の流氷群の際でボートを水から引き上げて凍った表面のソリ引きを始めました。この時パリーは(既に完成度の高いものをさらに進歩させようと思うべきではない)と思い知ったのです。
イヌイットのソリは軽く、犬が引きますが、パリーのソリは1.6㌧近くもあったのです。パリー隊はソリを押したり引いたりするのに苦労し、氷海で漕ぐのもうまくいきませんでした。
夏の海氷は彼らが北に進むより速いスピードで南に流れる場所もありました。氷上を行くこと61日目、172海里(318㌔)進んだところで断念しましたが、その地点の記録北緯82度45分はその後50年もの間破られることはありませんでした。

ジェームス・クラーク・ロスは1832年に北磁極に到達した最初の人となりました。ブーシア半島 の低くて代わり映えしない西岸で彼が磁石を見ると、磁針が北緯89度59分を指しているのに水平針は動いていないのです。
彼はその場所にケルンを建て、(こんなに重要な場所にはもっと目立つ標識があればいいのに。。。) と思いました。

1845年以来、ジョン・フランクリン卿は19世紀北極探検一大エピソードの有名人となりました。何が起こったかを理解するには、この物語の中心人物二人について知る必要があるでしょう。
ロンドン豪商の娘であった美しいジェーン・グリフィンはある花婿候補を拒絶した事をあとで後悔し、残りの人生を知識人としての生活に捧げる事にしました。
彼女は多くの本を読み、常に旅行し、臆することなく自分の意見を発言しました。
多くの人から厚かましくて我慢ならないと思われていました。
36歳の時に、有名だが引退していた老齢の北極探検家ジョン・フランクリン卿と出会い結婚しました。

フランクリンは既に北西航路を求めてカナダ北極の大陸部分を2度測量旅行していました。最近妻を失い、50歳で英海軍から定年引退生活を強いられていました。
アンティグア総督の職を、ジェーンが夫には不足と思い、辞退した後タスマニア総督職を受けました。
ところがタスマニア総督職は6年で敗走する結果となりました。フランクリン自身の無能ぶりだけでなく、妻ジェーンが周りの者誰かれとなく気を悪くさせ、怒らせる特技を持っていた事が原因でした。二人は敗北を悟り英国に戻りました。

その2年後の1843年に、北西航路の次の探検隊長職の引き受け手が他に無く、59歳という年齢にもかかわらずフランクリンに依頼が来ました。
フランクリンはエレバス号とテラー号の2船に128名の乗組員、犬一匹、ペットの猿一匹と共に1845年英国を出航しました。
その年の夏、グリーンランドのディスコ湾で見かけたという目撃証言を最後に、以後その年、翌年、そのまた翌年も全くの音信不通が続きました。
エレバス号、テラー号のみならずジョン・フランクリン卿を始めとする誰一人として生きて帰港する事はありませんでした。

フランクリン隊からの連絡が途絶えた翌年、レディ・ジェーンは海軍省に捜索と救援の実行を強く迫りましたが、船は3年分の食糧を積んでいるのだから心配しないように言われました。
1847年になって気がかりになってきた海軍省はフランクリン隊捜索のために2船を送りました。
翌年(1848)にはさらに2船を、そして1850年には合計10船が救援のために出航しましたが、いずれも目的を果たすことは出来ませんでした。
レディ・ジェーンはアメリカに出向き、米国からも救援船を送るよう訴えました。以後6年の間に36前後のフランクリン捜索船が出ており、レディ・ジェーン自身も4船用装備のために資金調達をしています。

誰も生きているフランクリン又は隊員を見つけることは出来ませんでした。
1850年になって若干の痕跡がビーチー島で見つかり、両船が1845~1846の冬をそこで過ごしたらしい事が分かりました。ところが、1846年にどの方角に行こうとしているのかの手がかりは見つかりませんでした。
1854年には海軍省はクリミア戦争で手一杯となり、捜索の継続はハドソン湾会社、レディ・ジェーン・フランクリンおよび米国の探検家たちに任されました。

フランクリン隊行方不明の謎の多くは、1854年にハドソン湾会社社員のジョン・レイ(医師)が指示を受けてブーシア半島を探索した際に解明されました。
(何日も西へ行ったところで白人のグループが餓死していた)という話を一人のイヌイットから聞き、レイは気に留めておきました。
2か月後に基地に戻った時、他のイヌイットが、(数年前に白人のグループが南へソリとボートを引きながら歩いていたが、飢え死にしそうだった)と言う伝聞情報をもたらしました。
さらにイヌイットはエレバス号士官達の紋章の付いた銀の食器を出しました。レイはその食器を買い取り、話と共に帰国しました。遭難死の話はレイが(死体の切断状態や残っていたやかんの中身から推測すると、生き残るために最後には人肉食にまで追い込まれたらしい)というイヌイットの話を繰り返した時に身の毛もよだつような恐ろしい話になりました。海軍省はこのニュースを公表せず静かに風化することを願っていましたが、レディ・ジェーンは違いました。

彼女は夫の遺体を見つける事を主張しました。海軍省はそれを拒否しましたが、彼女は既に自分の財産も捜索船装備のために使い果たしていたにもかかわらず諦めませんでした。彼女はフォックス号と言う蒸気エンジンヨットを購入するに足る資金を集めて、以前の救援にも参加した事のあるレオポルド・マクリントック船長他、ボランティアの船員を乗せて送り出しました。
ブーシア半島に着くなりマクリントックは1848年に飢え死にしそうな白人の一行を見たというイヌイットを見つけました。
その白人たちは沈んだ船の生き残りで、南に向けてボートを引いていたのでした。
彼らは悲惨な状態でした。マクリントック探検隊は、この死の行進の証拠を発見し、さらにヴィクトリー岬と名の付いたところで12年前に行方不明になった船員たちが建てたケルンを見つけました。
ケルンには隊員が書いた3部に分かれたメモが残っていました。フランクリンが1847年6月11日に死亡した事が書いてありました。結局全員の末路は、北極ではどこにでもある危険の餓死だったのです。

1847年以後10年余りの間におびただしい数の捜索隊が行方不明のフランクリン隊のために送られました。6隊はアメリカ大陸北極沿岸を陸上から、34隊は北米北の島々の間の迷路のような水路を捜索しながら、島の内陸はソリで捜索しました。
いまだかつて北極にこれほど多くの人間が侵入した事はありませんでした。
皮肉にも、この捜索を機に人類の高緯度北極に関する視野が広がり、地図の空白が大分埋まったのです。
さらにヨーロッパとアメリカの人々の眼は極地に釘づけになりました。
最後の捜索隊は1878年でしたが、人々の北極への興味はフランクリン隊の謎が解けても続きました。
ジョン・フランクリン卿は北極海沿岸の多くを解明しましたがその一方で、彼の死に関する謎は、人類の英雄的行為には限界がある事を示した強烈なドラマの中で、さらに多くのものをもたらしたのです。
この時代に、帆の他にエンジンが探検船に装備され、氷で覆われた海を航行できるようになったのです。フランクリン隊の末路に関する多くの証拠が見つかりましたが航海日誌やそれに替わる記録も無く、謎は残ります。
フランクリン隊が探検の目的を達せられなかったが故に、カナダ北極の広大な海域の探検と地図つくりの責務は、間接的にその捜索隊に課せられる結果となったのは皮肉な事でした。
最初の北西航路通過は1853年になされましたが、その際は中央部分のランカスター・サウンドの海氷上をソリで渡ったのでした。

1875年にオーストリアのカール・ワイプレヒト大尉(以前ユリウス・パイヤー大尉と共にフランツヨーゼフ・ランドを発見した人)は極地探検の全く違った視点と力点の置き場所を提唱しました。
彼は収集されたデータが極地以外の場所でも非常に重要であると言う事実に基づき、極地探検は地理的発見よりも科学的観測を主な目的とすべきと提案しました。
彼はいくつかの基地を造り、1年間同一の観測を同時に行う事を提唱しました。ワイプレヒトは自分の計画が実を結ぶのを観る事もなくわずか43歳で亡くなりました。

国際極地会議は1882年から1883年までを実験年としました。
統一したスケジュールに基づく34カ所の常設観測と共に計15基地(11を北極に、4基地を南極に)を建設する事になりました。
700名以上が科学の名のもとに国際協力の強い意志で参加しました。
収集されたデータは34巻にもなり、その後50年以上にわたって豊かな科学的基礎資料となったのです。最北の基地であったレディ・フランクリン湾のグリーリー探検隊だけが飢餓の被害者となりましたが、彼らが収集した貴重な気象情報、潮流、磁気のデータは今も保存されています。

(北極旅行&北極クルーズ3-3)