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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

ヘンリック・ヨハン・ブル

ヘンリック・ヨハン・ブル / Henrik Johan Bull
(1844年10月13日-1930年6月1日)

 

ヘンリク・ブルはノルウェーの実業家で、ボルヒグレヴィンクと同じく1880年代後半にオーストラリアに定住しました。ビジネスベンチャーとして、彼は南極海でアザラシ猟と捕鯨遠征を行うことを計画し、商業と科学の共同遠征の費用を分担するためにメルボルンの学会に近づきました。しかし、学会は独自の計画を持ち、目的の違いに関する議論を始めました。ブルはノルウェーに戻って遠征隊を組織し、支援者を見つけ、アンタークティック号乗組員、経験豊富な捕鯨船長レナード・クリステンセンを雇いました。

 

アンタークティック号は1893年9月20日にノルウェーのトンスベルグから出航し、1894年初頭にメルボルンに到着しました。オーストラリアの学会を通じて熱心に南極のニュースを追っていた学校の教師、カルステン・ボルクグレヴィンクは、南極遠征に参加したいと切望していました。メルボルンで彼は甲板員兼科学者として船に乗せてもらえるよう説得を試みました。出港後、数ヶ月の間に、亜南極諸島周辺のアザラシ猟は成功しましたが、鯨を見つける事が出来ませんでした。そこでブルは、以前の遠征でクジラの存在が報告されていたさらに南の海域にアンタークティック号を向かわせることに決めました。アンタークティック号は流氷群を通過し、ロス海に航海しましたが、それでもクジラは捕まえられませんでした。

 

1895年1月、船はヴィクトリアランド北東端のアデア岬の近くにおり、天候は穏やかでした。船が海岸線に近づくにつれて、ブル、クリステンセン、ボルクグレヴィンク、その他の乗組員を乗せたボートが降ろされました。岬の下の小石の海岸に上陸しました。誰が最初に海岸に上陸したのかが論争の焦点となり、クリステンセンとボルクグレヴィンクが、最初に上陸したと主張しました。他にも17歳のニュージーランドの船員アレクサンダー・フォン・トゥンツェルマンも、「ボートを安定させるために最初に飛びおりた」と主張しました。

これが、南極大陸への最初の上陸と言われています。しかし、1821年に南極半島でアメリカの捕鯨船長ジョン・デイビスが上陸していたとも言われています。

 

アデア岬に上陸している間、ボルクグレヴィンクは岩石や苔の標本を採取しました。苔の標本は南極大陸からの最初の植物サンプルとして科学的分析を受けました。彼はまた、岬の前浜を詳細に調査し、将来の探検隊が上陸し、冬の四半期を過ごせる可能性のある場所かどうか確認するために時間を費やしました。また、ポゼッション島にも上陸し、上陸した証拠として、ブリキの箱にメッセージを残しました。

 

資金を確保し、ボルクグレヴィンクはノルウェーに行き、そこで521トンの捕鯨船ポルックス号を購入し、サザンクロスと改名し、南極にその船を派遣する事にしました。

 

「メカニックの大きなストライキで英国での作業を完了することが不可能になった」ため、ノルウェーで搭載された「素晴らしいエンジン」の設置にかかった探検費用に特に注意を払いました。すべての部品は、ノルウェーの主要なシッピング・オーガニゼーションであるノルウェーベリタスの規格に準拠しました。

 

乗組員と科学者が集まった後、サザンクロス号は1898年8月にロンドンから出航し、オーストラリアに寄港した後、1899年2月17日にアデア岬に到着しました。ここでは、ボルクグレヴィンクが議会に説明した場所で、南極大陸で最初の海岸基地が設置されました。この基地はボルクグレヴィンクの母親に敬意を表して「キャンプ・リドリー」と命名されました。3月2日、船は出港し、残された10人の隊員、様々な食糧と装備、70匹の犬は、孤立した地域で冬を過ごしました。

 

同一行のオーストラリア人物理学者ルイ・ベルナッチは、後に「多くの点で、ボルクグレヴィンクは良い指導者ではなかった」と書いていました。彼は独裁者ではありませんでしたが、極地史学者ラヌルフ・フィエンヌが記録したように、階層の枠組みの欠如の中で「汚れ、不和、不活発」の順序で民主的無政府状態に陥り、時間が経つにつれて、気疲れし神経質になり、心はすり減っていきました。

 

ある日ろうそくが原因の大規模な火災が発生し、また別の日には一行の数人の隊員がストーブから出る煙によって窒息するという事故がありました。ボルクグレヴィンクはある種のルーティーンを確立と、科学的な作業が行われましたが、コミュニケーションの欠如は、彼が書いたように「沈黙は耳の中で騒音になります」。さらに、ボルクグレヴィンクが訓練を受けた科学者ではなく、装置を扱ったり観察したりすることができない事は、科学者達にとって懸念事項でした。士気をさらに弱めることとなったのは、グループの動物学者ニコライ・ハンセンが病気になり、治療の甲斐なく、10月14日に死亡したことでした。

 

冬が終わり、そりでの活動が可能になったとき、ボルクグレヴィンクのサウスヴィクトリアランド内陸へ容易に移動できるという仮定は誤りであった事が判明しました。アデア岬周辺の氷でおおわれた山脈は内陸探査を寄せ付けず、岬とロバートソン湾の周りの閉ざされた場所に一行を閉じ込めました。1900年1月末にサザンクロス号が戻ってきたとき、ボルクグレヴィンクはアデア岬から逃れたいと切望していたため、キャンプは放棄されました。ボルクグレヴィンクによれば、十分な燃料と食料が残っていたので、もう1年続けられる可能性があったとの事でした。サザンクロス号は、ヴィクトリアランドの海岸線に沿って南に航行し、1839年から1843年の航海中にサー・ジェームズ・クラーク・ロスによって発見されたグレート・アイス・バリアに到達しました。ボルクグレヴィンクは、バリアがロスによって報告された場所から約48km南に後退したと報告しました。

 

バリアの端に入り江が発見され、後年ホエーラーズ・ベイとして知られるようになりました。1900年2月16日、ボルクグレヴィンク、イギリス人のウィリアム・コルベック、サミ犬のハンドラー、パー・サビオが犬とそりでバリア(最初の登山など)を登り、16km南に移動し、南緯78°50′という最南端記録を樹立しました。 サザンクロス号は、北に向かう前に他のロス海の島々を訪れ、4月1日にニュージーランドに到着し、1900年6月6日にイギリスに戻りました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-4‐1)