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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

歴史

歴史(HISTORY)

 

キャンベル島は1810年1月、アザラシ猟船パーセヴィランス号の船長フレデリック・ハッセルバーグによって発見されました。ハッセルバーグは雇用主であるシドニーのロバート・キャンベル社にちなんでこの島を命名しました。その年の後半に訪問したハッセルバーグ船長はエリザベス・ファーと呼ばれる女性とジョージ・オールライトと呼ばれる若い男の子と一緒に乗っていたジョリーボートがパーセヴィランス港で転覆し、溺死してしまいました。ジャス・ブラッドワースという男性がエリザベス・ファーの遺体を引き上げ、港頭の入り江に埋葬したと言われています。

 

通常、新しいアザラシ猟場を発見しても秘密にしておきます。場所が知られてしまうと無秩序に捕獲され、すぐにアザラシの数が激減し収益が出ないレベルまで減少してしまいます。そのため、アザラシ猟の目的でキャンベル島へ行くことはほとんど知られていませんでした。この頃、亜南極地域でのアザラシ猟は衰退していましたが、アザラシの毛皮目的で1830年頃まで散発的に続けられていました。ニュージーランド政府は禁漁期にパトロールしてアザラシ保護に取り組んでいましたが、島々が遠く離れていることと密猟者が機知に富んでいたため失敗に終わりました。

 

初期のアザラシ猟は南緯60度以南での探索が行われていました。1838年、バリーとフリーマンはそれぞれエリザ・スコット号とサブリナ号でこの地域の東側の探索に着手しました。彼らは費用を補うためにアザラシの毛皮や油の捕獲、航海を長引かせるための水と木など、亜南極諸島を足掛かりとして利用しました。彼らは1839年1月10日から17日までキャンベル島を訪れました。初日、フリーマンは4年前にアザラシ猟船でこの島に取り残された4人を発見しました。このグループがアザラシの毛皮をたった170枚しか収集していなかった事実からアザラシの個体数が減少していることが証明されました。

 

19世紀には政府がいくつかの探検隊を支援していました。これは多くの場合、科学学会の請願の結果です。その2つの探検隊のメンバーはキャンベル島にしばらく滞在しました。初期の頃は1840年から1842年、イギリスのジェームス・クラーク・ロスの遠征でした。この遠征の目的は、島がかつて大陸の一部だったのか、または火山活動によって単独で隆起して形成されたものかを識別することでした。ロスに同行した2人の科学者、フッカーとライアルは初めてキャンベル島の植物と動物リストを作成しました。

 

2度目の遠征は、非常に稀な現象「金星の太陽面通過」を観察することを目的にフランス政府によって支援されました。1873年の準備遠征ではフリゲート艦ヴィール号の船長J・ジャックマートがほぼ1ヶ月島で過ごしました。この船は1874年にA・ブーケデラジール率いる主要探検隊と一緒に戻るまで、島に3ヶ月間滞在しました。金星が太陽面を通過した際、金星はほんの一瞬しか見えませんでしたが、メンバーが他の科学的発見をし、この遠征は成功しました。この遠征隊の1人、M・デュリスは腸チフスで死亡し、島内のヴィーナスコーブの向い側に埋葬されました。

 

1868年から1923年までイギリス海軍とニュージーランド政府の両船がキャンベル島を定期的に訪問し、パーサヴィランス・ハーバーのデポポイントに難破した人の為の貯蔵所(避難所)を整備しました。これは亜南極諸島にいくつか設置された難破した人の為の貯蔵所(避難所)のひとつです。羊、ヤギ、豚は、難破した船に食糧として提供することを目的に1895年以前、様々な時期に導入しましたが、これらの動物はどれも長く生き残ることができませんでした。時折、故意または偶然に火災が発生し、1874年までに本島にネズミが定着したと報告されていました。しかし1895年以降、借地農場の設立によって島の植生の大規模な変化が引き起こされました。J・ゴードンが21年間リース契約した際に羊が再導入されました。12年後の1907年、カンタベリー哲学研究所の研究者10名が亜南極諸島探検でこの島に8日間滞在しました。彼らは羊の放牧が植生に及ぼす影響を記録した最初の科学グループでした。

 

1810年に島が発見されて以来、捕鯨者たちは毎冬クジラが北上するルートがキャンベル島から近いことをよく知っていました。最後の捕鯨基地はノースウェストベイにあり、羊の群れの飼育と共に1909年から1916年まで運営されていました。1913年に捕鯨用の引き船を失ってから、その後、捕獲できたクジラはほとんどありませんでした。

 

農業の時代は1931年まで続きました。元の借地と更新された借地は何度も変更され、不確実な輸送システムや事故、世界的な不況により、ついに農業運営の継続が不可能になりました。農民たちは約4,000頭の羊と20~30頭の牛を島に放牧し、島を撤退しました。1937年に2度目の借地期限を迎えましたが更新されませんでした。

 

第二次世界大戦中、パーセヴィランスハーバーの北岸にあるタッカーコーブに沿岸警備隊が常駐していました。戦後1958年まで気象台として使用していましたが、ビーマンコーブから数100m東へ新たに設置しました。この基地は常に有人でしたが、1995年に全自動基地が新設された後、人間の存在は研究と保全による定期的な訪問に限定されています。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極6-2)