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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

最後の行進

最後の行進(Last March)

 

1月19日、失望と落胆した南極点到達隊は、13,000kmの帰路の旅につきました。「ひどく疲れていて、帰りの旅が単調になると思います」と翌日スコットは記しています。しかし、悪天候にもかかわらず隊員の前進は、順調に進んで、南極高原を通過しました。彼らの旅は、2月7日までに約500km進んでいました。1月23日、ベアードモア氷河を160km下っている数日間に、エドガー・エヴァンスの衰弱が激しくなってきました。

 

2月4日秋が過ぎ去っていきました。2月17日エヴァンスは、衰弱と凍傷が激しく、氷河から落下して死亡してしまいました。それ以来、650kmのロス棚氷を横断する旅は、凍傷、雪盲、飢餓、疲労と悪化する天候に悩まされ、南極点到達隊は、着実に悪化し、北に向けて戦いの日々が続きました。

 

続いてオーツが足に重度の凍傷を負い、自らを見捨てるようにと嘆願するようになった。3月16日、「ちょっと外へ出てくる」との言葉を残して、テントを出てブリザードの中で行方不明となった。この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。それから約30km歩いた3月19日、食料があるデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの待機を余儀なくされた。吹雪は10日間も吹き荒れ、テントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。

 

スコットは、3月29日の最後の感動的な見出しを除いて、彼の最後の言葉を書き残しました。彼は、ウィルソンの母親、バウアーズの母親、彼の元指揮官ジョージ・イーガートン卿、彼自身の母親と彼の妻など一連の人々に手紙を残しました。 また、主に探検隊を支援してくれた民衆へのメッセージも書き残しました。それは、探検隊の組織と行動の擁護で、探検隊の失敗は天候やその他の不運に起因したが、次のような感動的なメモで締めくくられています。

 

「リスクを取った。それは十分承知していたので、この探検が上手くいかなかったからと、不服を言う理由は無い。しかし、神の御心に誓い、最後まで全力をつくす努力をした。もし、生還する事ができたのであれば、故国のすべての人々の心を高揚させるような、私の仲間達の、苦行と忍耐、そして勇気について語る事ができたのだが。今や、こうして残したメモと、我々の死体が、物語を伝える事となるだろう。しかし、間違いなく、我が母国の様な豊かな国は、後に残す事となる我々の扶養者達の面倒を見てくれる事だろうと信じている」

 

スコットは、翌日の1912年3月29日に亡くなったと思われます。8ヶ月後に遺体が発見された時、テントの中の位置からスコットは、3人の中で最後に亡くなった事を示唆していました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-4‐4‐4)