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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

イテリメン族とカムチャダール族(ITELMENS (AND KAMCHADALS)

別名
ヴォグル

居住地区
•イテリメン:中央カムチャツカの西海岸
•カムチャダール:カムチャツカ渓谷の上の方やペトロパブロフスク地区や西海岸

公用語
イテリメン語、2つの方言

公用語の所属
チュクチカムチャツカ語族

文化の中心地
• イテリメン:コヴラン(Kovran)
• カムチャダール:ミリコフスキー

伝統文化
伝統的な定住性の漁や狩猟文化

民族地理学
言語は、深刻に脅かされ、言葉は、書かれることありません。ロシア人が到着した時、カムチャツカには約3万人のイテメンが住んでいました。人口の低下は、イニシャルによって部分的に説明されることができます。

植民地になる前までは、イテリメンは、南カムチャツカに広く住んでいました。
現在、彼らは、カムチャツカ半島の南西海岸のコヴランの中央の村付近に住んでいるのみです。

スターリンの時代から生き延びた村々(ユクトロホク、モロシュフノエやSopochnoye)は、閉鎖され、そこに住んでいた人々は1960年代にコヴランに移住しました。
イテリメン人の人口の約半分は、まだ生まれ育った故郷に住んでいます。公用語は激しく脅かされていて、筆記用には使われていません。

ロシア人が到着した時には、カムチャツカ半島には約30,000人のイテリメンが住んでいました。人口の減少は、争いや伝染病によるものと説明できます。
その後、イテリメンの多くがコリャーク人、ロシア人や他の移民と結婚しました。彼らの子孫はロシア語を話し、独特の地方文化を発達させました

これらの人々は、先住民の立場や自分たちのことをイテリメンと呼ぶ権利を1927年に失いましたが、2000年にその権利を取り戻しました。
自身をカムチャダールと呼びますが、正式な植民地名は、イテリメンと混ざった人々のために使われていました。

生活様式と田舎の人々
主に川でサーモンを獲る漁がイテリメンとカムチャダールの伝統的に主要な仕事です。
カムチャツカの田舎に残っている人々の多くにとって、漁は主な経済活動です。

沖合のトロール網での漁業は、川でサーモンの移動を脅かしていますが、多くのイテリメンは、伝統的なトロール網での漁業を続けています。1980年代には、商業的な海洋漁業を保護するために、固有のサケ漁業が禁止されました。今日、 先住民は、個別の漁獲枠を持っていますが、彼らのニーズには十分ではありません。

牧場は現在の仕事で、18世紀にはじめて導入されました。18世紀から1930年代のソビエト連邦による集団農場化で馬の牧畜が重要でしたが、現在ではほとんどされていません。

カムチャダールは、牧畜業や野菜栽培などに着手し、漁も重要な仕事でした。毛皮動物の狩猟や罠での捕獲は、植民地時代のヤサーク税の導入(yasak)前までは、イテリメン族の重要な経済でありました。

毛皮動物は、クロテンとキツネで、陸や海の哺乳類の狩猟は、主にマウンテンシープ、トナカイ、ヒグマ、アザラシ、クジラで、伝統的な重要性を持っていました。

これらの職業は、動物の減少や狩猟の規制のため現在ほとんどおこなわれていません。特にソビエト時代に、ベリーやハーブ、シダーナッツなどの採集は、重要な補助的な食料源でしたが、現在、樹木が少なくなったため手に入れるのが難しくなってきています。

(北極旅行/極東ロシア9-5)