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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

歴史

歴史(HISTORY)

 

アムンセン・ノビレ飛行船の係留マスト跡(ニーオーレスン)

 

ヨーロッパ人がこの地域へ最初に訪れたのは、おそらく12~14世紀の間です。ノルウェーのヴァイキングやロシアのポモーは、おそらくこの地域を狩猟の時に利用していましたが、彼らはこの発見を、外の世界に知らせませんでした。公式には、1596年にオランダのウィレム・バレンツによって群島が発見され、彼は、その立場で海図に示し、スピッツベルゲン島と名付けました。この道は、大規模な商業的な捕鯨の時代の幕開けとなり、1600年代初頭、スヴァールバル諸島海域は、イギリス人、フランス人、バスク人、デンマーク人、オランダ人の狩猟探検により開発されました。また狩猟キャンプや入植地も設立されました。「鯨油の町」スミーレンブルグは、1619年4に設立され、オランダ捕鯨船の活動の中心地となっていました。約3,000人が関わる集中的な商業捕鯨は、クジラの個体数に壊滅的な影響を与えることになりました。

 

ウィリアム・バレンツ

 

17世紀後半、ロシアの猟師は、ホッキョクグマとホッキョクギツネの毛皮を収穫するためにスヴァールバル諸島を訪れていました。クジラの個体数が激減したため、ノルウェーの捕鯨者は、セイウチを狩猟するようになっていました。様々な国からの活動により、スヴァールバル諸島の狩猟権をめぐる紛争が生じ、動物の個体数は急減しました。1820年までに、スヴァールバル周辺のクジラは、捕り尽くされ、個体数は激減し、捕鯨者は、別の場所へと移動していきました。そして、スヴァールバル諸島は、ほぼ1世紀近く放棄されていました。

 

19世紀の終わり頃、スヴァールバル諸島は、再びヨーロッパ諸国の注目を集めます。スヴァールバル諸島には、年間を通して氷のない港があり、地球温暖化により、その緯度は、穏やかな気候となり、スヴァールバル諸島は、北極圏の探査、観光、鉱業活動の最北端の拠点となりました。

 

次の数十年の間に、北極点や北極海航路を探検する多くの野心的な試みがここから始まりました。フリチョフ・ナンセン、ロアール・アムンセン、アーネスト・シャクルトン、サロモン・アウグスト・アンドレー、ウンベルト・ノビレ、ウラジミール・ルサノフなどの訪問者がスヴァールバル諸島を訪れました。彼らの中には、ここが最後の探検の出発地になった者もいます。例えばアンドレーの最後の飛行となってしまった、1897年の水素ガス気球で北極点を目指した計画もここが始まりの地です。アンドレー探検隊の遺体は、33年後に諸島北部のクヴィトーヤ(クヴィト島)で発見されました。スヴァールバル諸島での極地探検は、戦争のある年でも行われていました。それらは、アメリカの富豪リンカーン・エルズワースが支援したロアール・アムンセンの水上飛行機の探検なども含まれています。1925年5月21日、アムンセンは、スヴァールバル諸島から北極点やアラスカを目指しましたが、失敗に終わり、戻ってきています。1926年5月11日、アムンセン、エルスワース、ノビレ率いる探検隊は、ウンベルト・ノビレが建造した飛行船ノルゲ号でスヴァールバル諸島を出発し、彼らは北極点上空を通過してアラスカへ着陸しました。ムッソリーニ統治下の間、ノビレは、将軍及びファシスト党のメンバーになり、1928年5月23日再び、北極点への飛行を目指すことにしました。彼は、スヴァールバル諸島から探検に出発し、北極点へ到達しました。しかし、彼の飛行船は、帰路に墜落。アムンセンは、ノビレの捜索に出発し、その時に飛行機が墜落し、彼は命を落としてしまいました。ノビレの飛行船で生存した乗組員は、7月12日にロシアの砕氷船クラシン号に救出されました。

 

20世紀初頭、アメリカ、イギリス、スウェーデン、ロシア、ノルウェーの企業が、群島での採掘を開始しました。商業規模で石炭採掘した最初の会社は、アメリカ人のエンジニアであり起業家であるジョン・マンロー・ロングイヤー(1850~1922年)に属していました。彼は、1906年に群島最大の島の西海岸にあるロングイヤービーエンの町を設立した人物です。その他、同じ時期に、ロシアのグルマント(1912年)やスウェーデンのピラミッド(1910年)、スヴェアグルヴァ(1917年)、後にソ連に売却されたオランダのバレンツブルグ(1926年)が入植地として設立されています。

 

スヴァールバル諸島の新しい役割として、所有権の問題が再び持ち上がりました。1870年代以降、これらの群島は、無主地であり、基本的には「国家が主張出来ない土地」を意味していました。20世紀初頭、スヴァールバル諸島の国際的な法的地位に特化した、いくつかの国際会議がオスロで開催されました。その結果、これらの群島は、「国家が主権を主張することのない共有領域」として定義されました。しかし、この問題は、第一次世界大戦後の1919~1920年に行われたパリ講和会議まで、解決されませんでした。39ヵ国が加盟するスヴァールバル条約は、これらの領土は、ノルウェーの主権であることを認めていますが、他の加盟国がこれらの群島で商業活動を行うことを妨げてはならないと述べています。

 

ソビエト連邦は、1935年だけスヴァールバル条約に加盟しましたが、1932年には、ソビエト・アルクティクゴル信託(北極の石炭鉱業)が、島での採掘を開始していました。

 

(北極旅行/ポセイドン北極読本7-1)