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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

リチャード・バード

リチャード・バード / Richard Byrd
(1888年10月25日 – 1957年3月11 日)

 

1928年、バードは最初の南極探検を行いました。この探検には、2隻の船と3機の飛行機が使用されました。「フロイド・ベネット」号と呼ばれたフォード・トライモーター。(以前に行った探検のパイロットで最近亡くなったパイロットの名前)。「スター&ストライプ」号と呼ばれたフォッカー機。

 

「バージニア」号と呼ばれたフェアチャイルド機。(バードが生れたバージニア州に因んで)

 

ロス棚氷に「リトル・アメリカ基地」という名前のベースキャンプが建設され、犬ぞり、スノーモービル、飛行機による科学調査が始まりました。その夏の間、写真探検と地質調査が行われ、外界との無線通信が常時行われました。

 

彼らが最初の越冬をおこなった後、探検は再開され、1929年11月29日、有名な南極点へ往復飛行がおこなわれました。バードは、パイロットのバーント・バルヒェン、副操縦士兼無線技士のハロルド・ジュン、写真家のアシュリー・マッキンリーと共に、フォード・トライモーターで南極点への飛行を行いました。飛行時間は、18時間41分でした。

 

彼らは、十分な高度を飛行するのに苦労し、南極高原の高度に達するために、空の燃料タンクと緊急物資を投棄しなければなりませんでした。南極点への飛行は成功し、それによってバードは、歴史書に記載される事になりました。

 

さらなる夏の探検の後、探検隊は1930年6月18日に北米に帰還しました。バードは、南極大陸へさらに4回(1933~35年、1939年~40年、1946年~47年、1955年~56年)の探検をおこないました。

探検の間、アメリカ海軍のシニア・オフィサーで主にアメリカ海軍のコンサルタントとして従事しました。第二次世界大戦では、ハイ・コマンダーの地位でした。

 

バードは2回目の南極探検で、1934年の冬、5か月間一人で気象観測所である前進基地を運営した際、換気の悪いストーブのため、一酸化炭素中毒になり、かろうじて、基地から抜け出て助かりました。

 

バードからの緊急の無線連絡で、何か問題が発生しているようだと言うことになり、前進基地に見に行くことになりました。ベースキャンプから前進基地への移動で最初の2回は、暗闇、雪、機械的なトラブルのために失敗し、出発出来ませんでした。最終的に、トーマス・ポールター博士とE.J.デマス、アモリー・ウェイトは、前進基地に到着し、バードの体調不良を発見しました。一部の隊員達は、ベースキャンプからの飛行機がポールター博士とバードを迎えにくる10月12日まで前進基地に滞在しました。残りの隊員達は、トラクターでベースキャンプに戻りました。この探検の事故については、バードの自叙伝の中で説明されています。

 

当時発行された米国の切手にも記念切手として採用され、ジェイコブス風力2.5キロワットの風力発電機を備えたリトル・アメリカのバード基地からこの切手を使用したかなりの量の郵便物が発送されました。後に、お土産用の切手シートも発行されました。1938年の末に、バードがハンブルクを訪れた際、1938~39年のドイツの「ノイシュヴァーベンラント」南極探検への参加要請を受けましたが、辞退しました。

 

バードの3回目の南極探検は、初めて米国政府公式の支援によるものでした。このプロジェクトには、広範な地質学、生物学、気象学の研究、および探査が含まれていました。しかし、数か月後の1940年3月、バードは海軍作戦局長室で現役勤務に召集されました。南極探検は、バードがいない中でも続きました。バードは1942年から1945年まで離島の飛行場の調査などで太平洋の重要な任務に就いていました。ある任務では、ヨーロッパの前線も訪れる事がありました。彼は、功績のある任務で繰り返し表彰も受けました。

 

4回目となる最後の探検は、ハイジャンプ作戦でこれまでで最大規模のものでした。1946年、アメリカ海軍長官のジェームズ・フォレスタルは、6〜8か月続くと思われた南極探検のために大がかりな水陸両用の海軍力を結集しました。旗艦マウント・オリンパスと空母フィリピン・シーに加えて、13隻の米海軍支援船、6機のヘリコプター、6機の飛行艇、2機の水上機母艦、潜水艦、その他15機の航空機が配備されました。ハイジャンプ作戦に動員された隊員の総数は4,000人以上でした。

 

艦隊は1946年12月31日にロス海に到着し、米国の半分の面積の空中探査を行い、10の新しい山脈を発見しました。探検された主なエリアは、南極の東海岸線で、グリニッジ子午線から東に150度の範囲でした。探検は1947年2月末に6か月早く突然終了となり、全隊員が直ちに米国に帰還を命じられました。ミッションの早期終了については、一切の説明が成されませんでした。

 

1957年7月1日から1958年12月31日まで続いたの国際地球観測年(IGY)の多国間協力の一環として、バードは1955年から56年に米海軍のディープフリーズ作戦を指揮し、マクマードサウンド、海南湾、南極点に恒久的な南極基地を建設しました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-9)