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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

サー・ダグラス・モーソン

サー・ダグラス・モーソン / Douglas Mawson
(1882年5月5日 – 1958年10月14日)

 

ダグラス・モーソンは、ロバート・ファルコン・スコットが率いるテラノバ探検隊(1910年~13年)に指名されましたが、モーソンは、1911年~14年のオーロラ号でのオーストラリア南極探検隊を率いるためにその申し出を断りました。オーストラリア南極探検は、テラノバ探検よりも名声は高くはありませんでしたが、これまでに知られていない広範囲にわたる科学的および探索的探検と南極大陸の未踏地地域の調査を予定していました。モーソンが2人の仲間(その中でモーソンは、唯一の生存者でした)と引き受けた旅は、厳しい条件下での犬そりの旅でした。これは、南極探検の最も英雄的で壮大な物語の1つです。

 

ダグラス・モーソンは、イギリスのヨークシャーで生まれ、幼少期に両親がオーストラリアに移住しました。シドニー大学で地質学を学び、1905年にアデレード大学の講師に任命されました。彼は、1907年~1909年までのシャクルトンが率いるニムロド探検に加わっており、難しいルートで南磁極の到達に成功することができました。

 

モーソンは、オーストラリアのすぐ南にある南極大陸の3,200kmにおよぶ広大な未踏の海岸線を探検する計画を立てていました。探検は、科学の進歩のためにオーストラリア科学振興協会が財政的な支援を行いました。探検隊のメンバーは、主にオーストラリアとニュージーランドの大学出身者でした。使用された船はオーロラ号で、もともとイギリスのダンディーで建造され、ニューファンドランド島から購入しました。船は、隊員が乗船するホバートに向かう前にロンドンで改装が行われました。

オーストラリア南極探検隊の計画は、広範囲にわたる科学的データの収集という点で野心的でしたが、南極点到達の予定はありませんでした。ホバートの南東約1,370kmに位置するマッコーリー島での海洋調査が計画されていました。次に船は南極大陸本土に向かい、探検隊が1年間過ごすことができるよう、そこに小屋が建てられました。その後、別の班が海岸沿いに送り出され、翌年に迎えに行く予定でした。

 

1911年12月2日、オーロラ号は、タスマニア島のホバートからマッコーリー島に向けて出港しました。 この時代、補助エンジンを備えた木造帆船の乗組員に一般的であったように、荒波は不安を引き起こしました。最初の夜、強風に襲われ、大量の甲板貨物が動き始め、乗組員は、嵐から荷物を守るために紐で縛りつけなければなりませんでした。海水が流れ込み、淡水タンクの1つのプラグが洗い流されたため、飲料水の供給は分配となりました。次の数日間も、荒天が続き、大きな波が操舵室の片側の荷物を運び去りましたが、幸運にも、命を失う事はありませんでした。

 

最終的に嵐は静まり、12月11日、マッコーリー島が視界に入ってきました。彼らは、島の北端で最近難破したクライド号の乗組員に遭遇しました。クライド号の乗組員は、後に特務艦トロア号で帰還しました。

マッコーリー島に基地を築くことが、探検の最初の目的でした。基地となる小屋と無線ステーションがすぐに建設され、一部の隊員がマッコーリー島に残り、他の隊員を乗せたオーロラ号は、12月23日に南極大陸に向けて出港しました。

 

1912年1月7日、彼らは、モーソンがコモンウェルス湾と名付けた入江の岸辺に到着しました。船からボートが降ろされ、漕いで岸辺に向かいました。ここは、ウェッデルアザラシやアデリーペンギンなどの野生生物が沢山生息する地域でした。探検の作戦の中心地は、南極大陸、コモンウェルス湾のデニソン岬になりました。オーロラ号から荷物が降ろされ、小屋の建設が始まりました。荷物が降ろされるとすぐに、フランク・ワイルドが率いる「ウエスタン・パーティー」の8名の隊員を、海岸に沿ってさらに2,500km離れた場所に輸送するため、オーロラ号は、直ぐに出発しなければなりませんでした。南極の短い夏は終わりが近づき、風が強まってきました。2月までに、すべてを固定し終えれず、強風で吹き飛ばされてしまいました。隊員達が安全に小屋を離れるためには、アイゼン(ブーツの底に取り付けられた金属製の爪)を着用する事が不可欠でした。それらが無ければ、彼らは本当に危険に晒されていたでしょう。

 

穏やかな日、あるいは、穏やかな期間は、非常に稀で、通常、強風の中で野外活動を行わなければなりませんでした。

 

3月から4月にかけて風は、しばしば160km (100mph)超え、時には、320km (200mph)を超えました。

風は、この場所の隊員達の生活を支配していました。モーソンと2人の仲間は2月の終わりに探索旅行を行おうとしましたが、僅か9kmしか進む事出来ず、天候条件を考えて基地に戻りました。

 

探検計画の1つは、ラジオ塔を建設する事でした。建設は、4月4日に始まりましたが、悪天候のため、9月1日まで完成する事ができませんでした。10月13日、信号がオーロラ号とマッコーリー島に無事に送られた後、システム全体が風で吹き飛ばされてしまいました。長く暗い冬は、そり旅行に向けて準備作業が行われ、毎日の日常業務で過ぎ去りました。

 

8月、モーソン率いる3人の班は、デポを設置するのに奮闘したのですが、僅か9㎞しか進む事が出来ず、物資を貯蔵するアイス・シェルターを掘り、アラジンの洞窟と名前付け、その後、物資を補充しました。

 

他のそり班は、天候が良かった時に出発したのですが、隊員の1人は、基地に戻る際に、1日に僅か4kmしか前進できず、80kmを走行して凍傷になり疲れ果ててしまいました。

 

11月までに天候は回復し、5つのそり班が計画されました。モーソン班が踏査を担当するのは、極東方面でした。

モーソンは、彼らを迎えに来るオーロラ号に乗船するために、基地を去る5つのそり隊に、1月15日まで基地に戻るよう指示しました。1912年11月10日、モーソンは、英国軍の歩兵隊員、ベルグレーブ・ニニス(25歳)とスイス人のスキーチャンピオン、クサビエ・メルツ(29歳)と共に犬ゾリで出発しました。彼らは、天候条件が良好で前進する事が出来ましたが、時折、ブリザードで3日間も足止めされる事もありました。

 

12月14日、氷原を渡っている際、スキーを履いたメルツは、雪に覆われたクレバスがある事を知らせていました。クレバスの横断は、スノーブリッジ(クレバスの上にかかる雪の橋)が壊れやすいため危険です。それらは直角に交差していて未知の強さを信頼するかどうかにかかっています。メルツが最初に通過し、次にモーソンも安全に通過出来ましたが、3番目にニニスが通過しようとした際、一瞬にして、ニニスとそりとすべての犬が視界から消えてしまいました。

彼らは、スノーブリッジを突き破りクレバスに落下してしまったのです。モーソンとメルツは命綱を体に結び付けてクレバスの縁に駆け寄り、交互にクレバスの底を覗き込みました。クレバスの暗い開いた空間の約45m下では、犬が吠え叫んでいて、背骨が折れているようでした。それから3時間以上、モーソンとメルツは、ニニスの名を呼び続けました。彼らは持っていたすべてのロープを繋ぎましたが、長さが足りずクレバスの底に降りる事ができませんでした。やがて二人は、ついに現実を受け入れました。

 

この事故で彼らの仲間のニニスを失い、優秀なそり犬6頭、物資、テント、殆どの食料と衣服も失ってしまいました。

 

残りのそりには、2人にとって10日分の食料しかなく、6頭の犬の食料は、何もありませんでした。彼らはデニソン岬の基地から500km以上離れていました。彼らは、予備のテントカバーと幾つかの燃料、調理器具を持っていましたが、インナーテントやポールはありませんでした。デニソン岬に戻る際、より簡単なルートを予定していたため、彼らは、この旅行のためのデポは設置していませんでした。数日前に、彼らはより軽く旅行をするためにそりを捨てていました。彼らは、もう一度、道具を再点検して不要な物はすべて処分しました。スキーとそりのランナー(滑走部)を組んで柱を作り、予備のテントカバーを被せて、即興でテントを作りました。犬には、使い古されたフィネスコブーツ、ミット、生皮ストラップが餌として与えられました。ニニスが亡くなった翌日の12月15日、最も力の弱い犬が殺され、他の犬や人間の食料となりました。

 

このパターンは、最後の犬が倒れるまで、次の10日間続きました。肉は固く筋がありましたが、足などすべての部位は、煮込んで食べました。10日後のクリスマスの日には、基地から未だ260km離れていました。彼らは非常にゆっくりとした足取りで旅をし、1日にたった数キロメートルしか進む事が出来ませんでした。彼らの食料は、犬の肉のだけでした。乏しい食料を出来る限り切り詰めました。

 

『私は、何時間もテントの中に横たわり、私の心の中に潜んでいるすべてと未来のチャンスについて考えを巡らしていました。 私は世界の広い海岸に一人で立っているように見えました…私の体調はいつか悪くなるかもしれないと感じていました。瞬間…つま先のいくつかが黒くなり始め、足のつま先は、化膿し、爪は緩んでいました。

希望はほとんどなく…テントの中ですぐに眠れました。そして、外の天候は、荒れ狂っていました。』モーソン

 

1月7日、メルツが亡くなり、モーソンは、日記に次のように書き記しました「悪天候と食料の不足の結果、寒さで死をもたらした」。モーソンは、ベースキャンプに向けて歩き続けました。1月17日、クレバスに落ちたが、そりを引くために体に結び付けていた長さ4メートルのマンホール・ハーネスが、命綱になったのでした。モーソンは、ロープをよじ登っては一休みをし、さらに上り続けました。まず脚をクレバスの縁にかけ、ついに地表にはい上がる事ができました。クレバスからの脱出のために疲れ切ってしまいました。彼は、今日一日の終わりにキャンプを作るのに約2時間もかかってしまいました。

 

1月29日、ほぼ完全に物資がなくなったモーソンは、数時間前に捜索隊によって設置された雪のケルンを発見しました。ケルンには、ここまで捜索に来た隊員からのメッセージと食料が残されていました。食料を食べながらメッセージを読みました。メッセージには、「オーロラ号が待っています。アラジンの洞窟までは、ここから37kmです」と記されていました。アラジンの洞窟に辿り着くまで、さらに3日かかり、2月1日に到着しました。天候は再び悪化し、デニソン岬に向けて出発する前に、アラジンの洞窟にさらに1週間の滞在を余儀なくされました。

 

モーソンがデニソン岬の基地に到達した時、彼は、遠くの水平線上に小さな点が見えました。コモンウェルス湾を出港したオーロラ号でした。しかし、6名の隊員達が、モーソンとメルツ、ニニスの捜索を続けるために残っていました。彼は、死から救われたかのように迎えられました。

 

彼らは、無線でオーロラ号を呼び戻そうと試みましたが、オーロラ号は、氷の状態が悪く戻れませんでした。デニソン岬の7名の隊員達は、吹雪の中、諦めて越冬する事にしました。幸運にも、食料や燃料は、十分にありました。次の春、そり旅行を行いました。2013年12月12日、オーロラ号が、再びコモンウェルス湾に戻ってきました。

 

12月24日までに2年間の探検は終わり、2014年2月5日、オーロラ号は、オーストラリアに向けて出港しました。

後に、メルツとモーソンは、ハスキー犬の肝臓を食べたことで、ビタミンAの中毒症状に苦しんでいた事が判明しました。

 

ダグラス・モーソンの生涯最大の功績は、1911~14年にオーストラリア南極探検隊が行った科学調査を96本の報告書にまとめて発表した事でした。ダグラス・モーソンは、1920年に地質学の教授に任命され、1952年に退職し、1958年に他界しました。南極探検の英雄の時代の最後のリーダーでした。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-8)