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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

バウンティ号のウィリアム・ブライ

バウンティ号のウィリアム・ブライ(William Bligh of the Bounty)

 

ウィリアム・ブライ副提督(1754年9月9日~1817年12月7日)はイギリス海軍の将校であり、植民地の管理者でした。彼は「バウンティの反乱」で有名な「キャプテン・ブライ」として最もよく知られていて、一部は本当の歴史として文献に記録されています。彼の指揮に対する反乱で、バウンティ号の大型ボートで反乱軍に流され、ティモールに到着した驚くべき航海を彼はよく覚えていました。これは情報に基づいた計測と並外れた航行技術で大きな困難を乗り越えて生き延びることができたのです。バウンティの反乱から何年も後、ブライはオーストラリアのニューサウスウェールズ州知事に任命され、ニューサウスウェールズ軍団の腐敗したラム酒取引を一掃することを命じられました。

 

ブライはイギリスのボドミニン近郊のセントタディで生まれました。1761年彼が7歳の時に同じ町でイギリス海軍に入りました。迅速に昇進するために必要な勤続年数を獲得するために「若い紳士」として入隊することは一般的な慣行でした。1770年、彼が16歳の時にHMSハンター号に加わりましたが、この任期は海軍士官候補生の空席がなかったため、上級水兵としての任務でした。彼は翌年の初めに海軍士官候補生になりました。1771年9月ブライはクレセント号に異動し、3年間その船で勤務しました。

 

1776年、ブライはジェームズ・クック船長よりレゾリューション号の航海長に選ばれ、1776年7月、クックの3回目の運命的な太平洋航海に同行しました。彼は1780年末に再びイギリスに戻りクックの最期の航海の詳細を伝えることができました。

 

1781年2月4日、ブライはイギリス、マン島のダグラスに駐留していた時に税関長官の娘だったエリザベス・ベサムと26歳で結婚しました。結婚式は近くのオンチャンで行われました。

 

数日後、ブライはHMSベルプーレ号の航海長に任命されました。その直後の1781年8月、パーカー提督の下でドガーバンクの戦いに参加し、次の18ヶ月間は様々な船で海尉を務めました。彼はまた、1782年にジブラルタルでハウ卿と戦いました。1783年~87年の間、ブライは商船の船長を務め、1787年にバウンティ号の司令官に選ばれました。ブライは最終的にイギリス海軍の海軍中将に昇格します。1787年、彼はバウンティ号の指揮を執りました。王立学会の特別な要請で、まずタヒチへ行ってパンノキの木を手に入れ、これを欲しがっているカリブ海へ向かう予定でした。パンノキの果実が奴隷用の食糧作物として適しているか実験することになっていました。バウンティ号はタヒチを出港してからすぐに船内で反乱が発生したため、カリブ海に到達することはできませんでした。

 

タヒチへの航海は困難でした。ホーン岬を回る航路に1ヶ月挑戦しましたが、悪名高い荒天のため失敗し、喜望峰を回る長い航海へ変更せざるを得ませんでした。パンノキの果実の輸送には十分に成熟している必要があり5ヶ月待たなければならなく、タヒチでさらなる遅れが発生しました。バウンティ号は1789年4月にタヒチを出発しました。

バウンティ号は監視艇クラスの船の位置づけだったため、この船にはブライ以外に士官はいなく、乗組員も非常に少なく、停泊中に船への侵入者や船上のセキュリティを強化する乗組員もいませんでした。より長く、継続した睡眠を確保するために、ブライは乗組員を2交代ではなく3交代に分け、航海士の階級を持つブライの弟子、フレッチャー・クリスチャンに1グループを担当させました。1789年4月28日の帰還航行中に発生した反乱はクリスチャンが主導し、乗組員の3分の1を率いて夜間当直中に銃器を手に入れ、ブライを脅し客室に閉じ込めました。

 

大多数にも関わらず、ブライが拘束されているのを見た時に彼に忠実な者たちは大きな闘争を起こさなかったため、船内では流血せずに航海しました。反乱者たちはブライと彼についた18名の乗組員に7mの小型船、六分儀、懐中時計、4本の舶刀、数日間の食糧と水を提供しましたが、海図やコンパスはありませんでした。ボートは非常に重く、側面は水面から10cm弱しかありませんでした。彼に忠実な乗組員全員小型ボートに収容することができなかったため、4人は反乱者によってバウンティ号に拘束され、後にタヒチで解放されました。

 

ブライらが捨てられた位置から見てタヒチは風上にあり、明らかに反乱者たちの目的地でした。ブライに忠実な者たちは、バウンティ号が離れていく時に反乱者が「タヒチ島、万歳」と叫んでいたのを聞いたと伝えています。タヒチを除き、ティモールはヨーロッパの植民地の中で最も近い場所でした。物資を入手するために、ブライたちは最初にトフア島へ行きました。そこでは敵対的な先住民に攻撃され乗組員が殺されてしまいましたた。トフア島から逃げ出した後、ブライは防衛するための武器がなく、同様に攻撃を受ける可能性があったため、あえてフィジー島に立ち寄ることはしませんでした。

 

ブライはキャプテン・クックの指導の下で培った航海術に自信を持っていました。彼の一番の責務は自分が生き残り、すぐに反乱軍を追跡できるイギリスの船へ反乱の知らせを届けることでした。そのため彼は不可能と思えるティモールへの6,701kmの航海に取り掛かりました。この驚くべき船の操縦術でブライは47日間の航海の後、ティモールへの到着に成功しました。唯一の犠牲者はトフアで殺された乗組員でした。皮肉なことに彼と一緒にこの試練を生き延びた乗組員の何人かは、オランダ領東インドのバタビア港でイギリスへの輸送を待つ間、マラリアにかかりすぐに亡くなってしまいました。

 

反乱の理由については今日まで、かなりの議論になっています。一部の人々はブライが残酷な暴君で乗組員を虐待したことで乗組員はブライを排除するしかないと感じていました。他の人々は、乗組員の経験が浅く過酷な海に慣れていないため、タヒチ島での自由と性的過剰に影響を受け船員に戻ることを拒否したと考えています。彼らは弱いフレッチャー・クリスチャンに率いられ、ブライの厳しさから解放されるには幸せすぎました。彼らはブライが船から離れ、タヒチでの自由と快楽の生活に戻ることができると信じていました。ブライは最終的に1790年3月にロンドンに戻りました。

 

バウンティ号の航海日誌では、ブライは懲罰には、比較的控えめであったことを示しています。他の船長が鞭打ち刑を行うケースでは彼は、叱責し、絞首刑を行うケースではむち打ち刑で済ませていました。彼は科学に深く興味を持った教養のある男で、乗組員の福祉のためには、良い食事と衛生設備が必要であると確信していました。乗組員の運動に大きな関心を持ち、彼らの食事の品質に細心の注意を払い、バウンティ号は非常に清潔に保たれていると主張しました。また性病の広がりをチェックしようとしましたが失敗しています。この卓越した海軍士官の欠点についてJ.C.ビーグルホールが次のように書いています。「ブライは自分にできることについて独断的な判断を下した。彼は自分自身のことを知らなすぎた。ちっぽけなうぬぼれは彼の生涯を通しての欠点だった。彼は自分が侮辱している相手が友人になってはくれないことに気づいていませんでした」

 

大衆小説は時々、ブライとHMSパンドラ号のエドワード・エドワーズを混同します。エドワーズは王立海軍の南大洋遠征に派遣され反逆者を見つけて裁判にかけました。ブライが非難されているように彼は残酷な男だったと言われています。彼が捕らえた14人の男をパンドラ号の船尾甲板にある5.5×3.35×1.72mの窮屈な木製の監房に閉じ込めました。パンドラ号がグレートバリアリーフに座礁したとき、4人の囚人と31人の乗組員が亡くなりました。甲板船員のウィリアム・モルターが監房の鍵を解除しなければ、囚人たちは沈む船から飛び降りれずに全員死んでしまうところでした。

 

1790年10月、ブライはバウンティ号の喪失に関する軍法会議で見事に無罪となりました。その後まもなく、HMSバウンティ号の反乱の物語が発表されました。パンドラ号の沈没にも関わらず、最終的に帰宅した10名の囚人のうち4名はブライの大型ボートのスペースがないためにバウンティ号に残った非反乱者であることをブライが証言し無罪となりました。他の2名は反乱に参加していないが、反乱に抵抗もしなかったため有罪判決を受けましたが、後に王室の恩赦を受けました。1名は有罪判決を受けましたが特殊な理由により免れました。残りの3名は有罪判決を受け絞首刑になりました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極5-2-1)