南極・北極旅行&クルーズ 株式会社クルーズライフ

  • ホ-ム > 
  • 南極クルーズ・北極クルーズの手引き

南極クルーズ・北極クルーズの手引き

南磁極の調査

南磁極の調査(THE SEARCH FOR THE SOUTH MAGNETIC POLE)

 

ウェデルがウェッデル海の奥深くへ進出したことに触発されフランスやイギリス、アメリカ政府は、探検任務を開始しました。そのすべてには、新しい土地と南磁極の発見という2つの目標でした。

 

最初に航海に出たのがジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィルでした。1838年2月下旬から3月上旬にかけてデュルヴィルは、南極半島の一部を海図化した後、磁極を探すために南に向かいました。

 

デュモン・デュルヴィル

 

2回目の南への遠征の間に、彼の船は、南極大陸から約6.5kmのまで近づいていました。1839年1月21日、数人の彼の部下が数百メートル沖合の小さな小島に上陸し、彼らが見ていた陸地全てをフランス領として主張しました。デュルヴィルはそれをテール・アデリー(アデリー・ランド)と名付けました。

 

アデリーランドの発見

 

アメリカの探検隊は、チャールズ・ウィルクス少佐が指揮していました。彼のアメリカ探検隊は、6隻の船と433人の隊員で構成され、これまでに南極海へ派遣された中で最大の探検隊となりました。1838年8月、その艦隊には数名の博物学者と科学者が同行していました。ウィルクスの南極半島への最初の探険では、新たな発見をもたらすことはありませんでした。しかし2回目の遠征では、1840年1月16日、アデリー・ランドのハドソン岬から始まり、2月21日に現在シャクルトン棚氷と呼ばれる所に至るまで数百マイルの新しい海岸線を海図化しました。デュルヴィルと同様にウィルクスも磁極までは氷に妨げられましたが、彼が海図化した多くの地域は現在ウィルクス・ランドとして知られています。

 

デュモン・デュルヴィルは、南極海にフランスの影響を拡大するために主に南へ派遣されました。ウィルクスは、危険な南極海を図面化することを指示されていました。彼らの南磁極の調査は二次的なことだったのでした。

 

一方、ジェームズ・クラーク・ロスは、捉えところのない磁極を見つけることが明確な任務でした。彼は既に北磁極(1831年)を見つけていたため、南磁極も探すのにふさわしいと思われていました。

 

ジェームズ・クラーク・ロス

 

1839年10月初旬、ロスは2隻の船を指揮しイングランドを出航しました。ロスは、旗艦エレバス号、フランシス・クロージャーがテラー号を指揮しました。彼らは1840年に冬のオーストラリアで過ごし、ロスはオーストラリアでデュルヴィルとウィルクスの発見の記事を読みました。彼らの記録を見たロスは、南へ針路をとる前にさらに東へ航海することを確信しました。そしてその決定が鍵となり、1841年1月9日、ロスは氷を押しのけ、ロス海の中へと行きます。2日後、彼はさらに南の土地である山脈を見つけ、その山脈をアドミラルティ山脈と名付けました。1月12日彼はポゼッション島へ上陸し、イングランド領と主張し、彼はヴィクトリア・ランドと呼びました。

 

ロスは、1月22日にはウェッデルの最南端到達記録を越えていました。そして発見は、次々と続き、1月27日にはフランクリン島に上陸し、領有を主張しました。翌日にはロス島と島のエレバス山とテラー山を発見し命名しました。彼の船は南進を続け、最終的にロス棚氷まで進みました。(ロスはヴィクトリア・バリアと呼んでいました)。  ジェームス・ロスは可能な限り南に航海しましたが、彼はまた、南磁極が内陸にあり、海からアクセスできないことを発見しました。

 

(南極旅行/ポセイドン南極読本6-5)