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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

探検

クック船長の上陸(1775)以来ほとんどの上陸者はオットセイ、アザラシ猟師でした 。彼らは企業秘密ゆえほとんど行き先などは公表しませんでしたが、例外的に英オットセイ猟師ジェームス・ウェッデルは現在彼の名前が付いた海域、ウエッデル海を南下し、以後150年の間誰も行けないほどの南までたどり着いたことが分かっています。帰りの北上中サウスジョージアに上陸し、乗組員は壊血病予防のために久しぶりの青菜(おそらくワレモコワAcaena magellanica)を食べたのでした。
ウエッデルはタソック草とキングペンギンの営巣の詳細な記述を含む報告書を出版しています。キングペンギンの事を、「クジャク同様にプライドの高い鳥である」と、そしてワタリアホウドリについては、「交尾する仕草はなにかユーモラスで珍しい」と記述しています。

ロシア帝国の探検隊はミルニー号とボストーク号で1819年に島南西部の測量を行いました。隊長のタデウス・ベリングズハウゼンはクック船長同様、サウスジョージアには価値を見出さず、「南部沿岸を半分以上行ったが何の植物も、1本の灌木さえ見当たらなかった。」と書いています。

陸上での初科学観測はカール・シュレイダー博士率いる国際極地年探検隊(独1882~3)で、サウスジョージアとしては初の蒸気船モルツク号で到着しました。
現在のモルツク・ハーバーとロイヤル・ベイに何棟かのプレハブ小屋を建て、その痕跡は今でも見る事が出来ます。11名の隊員が越冬し、気象学、地質学、地球物理学、氷河学、そして植物学などの観測研究活動をしました。
彼らは天文台を建て、好天に恵まれたため、金星の太陽面通過を観測しました。
(惑星の太陽面通過にかかる時間を計測することにより、その惑星の正確な位置と太陽からの距離を知る事が出来ます。)
この観測は南極最初の電報利用と同時になりました。基地には牝牛3頭、羊17匹、山羊9匹、雁2羽が飼育され、野菜の栽培も試されました。

次の観測はオットー・ノルデンショルド率いるスウェーデンの南極探検隊(1901~3)でした。彼らの船、アンタークティカ号(C.A.ラーセン船長)は後に氷につぶされて沈没してしまい、乗組員は氷上に取り残されてしまいました。
そして、アルゼンチン船ウルグアイ号による彼らの救出劇は後のサウスジョージア捕鯨産業開始に直接つながる結果となったのです。
最初の冬の間、アンタークティカ号はサウスジョージアを測量しながら2か月を過ごしました。島の測量をしている間3名の陸上隊は生物学、地質学の調査をしましたが、軟体動物の化石を発見し、爆薬を使って取り出しています。
小人数が5月1日にカンバーランド湾に上陸し、その小さな入り江をマイヴィケン(5月入り江)と呼びました。観測中,捕鯨銃砲手アンダーソンは峠を越えてもう一つの入り江に降り立ち、そこで三脚のアザラシ獣脂用大鍋を7つ見つけました。現在グリトヴィケン(鍋入り江)と呼ばれる場所です。

第二の独探検隊(1911)はウィルヘルム・フィルヒナー率いるドイツ号でウエッデル海へ向う途中サウスジョージアに立ち寄りました。
この頃までに、カール・A・ラーセンはグリトヴィケンに捕鯨基地を開設しており、海岸線測量のために蒸気エンジン付きヨット、オンディーヌ号を提供し、独探検隊が使用したロイヤル・ベイでは3人が越冬しています。

独モルケ号による限られた観測と地質学者の探索以外には、投錨地や海岸線から離れた内陸は全く測量もされていませんでした。
内陸への最初の本格的探検は、サー・アーネスト・シャクルトンら3名によるキングハーコン湾からストロムネスへの驚くべき山越えトレッキングで、独ドイツ号探検隊作成の大まかな地図を頼りに実行したものです。
最初の実質的な内陸観測はコール・ラーセン探検隊(1928~9)です。隊はルドヴィック・コールラーセン(ヒルヒナー隊の経験者)とその妻マギー(C.A.ラーセンの娘)そしてカメラマンのアルベルト・ベニッツで、彼の映画フィルムは現存しています。氷河学、地質学、気象学と共に、沿岸部では生物学観測も行いました。ハスヴィックから内陸のコール氷冠を探検し、サウスジョージア内陸の地図が進歩しました。

さらなる地図の進歩は、1951~7に4度にわたって、のべ8名で行われたダンカン・カース率いるサウスジョージア測量局によるものです。
彼らによる地図は2004年に人工衛星利用により作成されたものと比べてもほとんど変更不要なほど正確なものでした。

サウスジョージアへの探検隊のほとんどが、島への出入りや周辺の交通手段は捕鯨業者に頼っていました。捕鯨業者の助けで、このように文明から遠く離れても少人数の、時には一人の私的探検も可能だったのです。

オーストリア人、ハインリッヒ・クルチャックは1877~8にアメリカのオットセイ猟船に乗ってきました。スウェーデンのナチュラリスト、エリック・セーリングは1904にC.A.ラーセンと共に来て1年間観測滞在しています。
ロバート・クッシュマン・マーフィーは帆船捕鯨時代最後のデイジー号でやって来て、かなりの鳥類学調査をしています。彼の本「Logbook for Grace」はオットセイ・アザラシ猟そして捕鯨の様子や自然誌についての読みやすい本です。
大英博物館、自然誌部門のバレット・ハミルトン少佐はレイス・ハーバー基地に上げられた294頭のクジラ死骸調査を、突然の死(1914年1月)まで続けました。ニール・ランキンは1946に古い救命ボート、アルバトロスを持ち込んで鳥類調査を行い、ジョージ・サットンは5人の英サウスジョージア探検隊(1954~5)を率いて登山と測量を行っています。前記いずれの探検隊も本を出版しています。
1953にバーナード・ストンハウスとナイジェル・ボナーはベイ・オブ・アイルの小さな小屋で1年間、キングペンギン、ゼンツーペンギン、ミナミゾウアザラシ、南極オットセイそしてオオトウゾクカモメの調査観測をしました。

旧式探検観測の最後はランス・ティッケル率いるバード島でのアホウドリ調査(1958~64)で、米南極観測プログラムの資金援助によるものです。

サウスジョージアに関する科学的知識は1969年以来、キングエドワード・ポイントとバード島にある英南極観測局の活動により飛躍的に進歩しました。しかし、小さなヨットを利用した私的科学調査や登山遠征は今でも毎夏数多く行われています。

(南極旅行/サウスジョージア島2)