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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

ロアール・アムンセン

ロアール・アムンセン / Roald Engelbregt Gravning Amundsen
(1872年7月16日 – 1928年6月18日前後)

 

ロアール・アムンセンは、探検隊を率いて人類史上初めて南極点到達に成功した人物です。誰もが知っているように、同時期に出発したロバート・スコット隊は、アムンセンの南極点到達の約1か月後に南極点に到達しました。アムンセン隊は、良く組織され準備がなされていました。アムンセンの主な目標は、ロバート・スコットの探査と科学的発見の二つの野望ではなく、地理上の南極点に到達するというものでした。

 

ロアール・アムンセンはもともとクリスチャニア大学(現オスロ大学)で医学を学び始めましたが、21歳の時に母が没するとアムンセンは大学を中退し、船乗になる事を決意しました。最初の南極旅行は1899年にベルジカ探検隊で、初めて南極で越冬した探検隊員の一人となりました。 氷に閉じ込められ、翌春に氷から抜け出せるまで漂流しました。彼は、この探検でリーダー、アイスマスター、機知に富んだ探検家としての資格を確立しました。

 

ベルジカ探検隊

エイドリアン・デ・ジェルラッシが1897年に多国籍の探検隊をベルギーのアントワープで結成。彼らの探検船ベルジカ号(BELGICA)は、1898年2月28日から1899年3月14日まで、約13ヶ月間、氷に閉じ込められ漂流。病気により、探検隊に死者が出るなどしたが、探検隊自体の生還には成功している。南極圏における越冬により、多くの経験を得ることができた。この探検隊にはロアール・アムンセンも加わっていた。

 

 

アムンセンは、ヨーア号で1903年から1906年まで北極圏で初めての北極探検を主導しました。世紀の試みと文字通り何百もの命が失われた後、小さなヨーア号で史上初めて北西航路の横断航海に成功したのです。

 

北西航路横断航海に成功したアムンセンは、次に北極点到達を目指しました。

 

探検家フリチョフ・ナンセンの為に建造されたフラム号で、北極海の海氷に閉じ込められたまま漂流して北極点に到達する事でした。フリチョフ・ナンセンは、北極と南極の極地旅行の父とみなされていました。フラム号は、珍しい船でしたが、商船や石炭船として使われていた極地探検船とは異なり、極地旅行用に設計され建造されました。フラム号は、丸底で、船の全長の3分の1が船の全幅でした。この形状の背後にあるアイデアは、船底が丸い特殊な形の船体は、流氷の氷圧に影響を受けないという事です。流氷につかまった他の船は、氷の圧力で、破壊され、船の乗員は流氷の上で立ち往生します。

フラム号は、上向きに押し上げられ、横に圧力がかかり、氷の上に押上げられます。冬場にノルウェーのフィヨルドで海氷が形成され凍結する時に、比較的小さなボートでよく見かけられました、フラム号も、そのように完璧に機能しました。

 

しかし、アムンセンが北極点探検準備中の1909年4月6日に、ロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知り、目標をひそかに南極点に変更。

 

しかし、出資者や隊員にはこれを告げず、秘密裏のままに準備を進め、アムンセンは、1910年8月「北極探検のため」2年間分の食料と100頭のグリーンランド犬 を乗せてノルウェーのクリスチャニアを出航しました。ノルウェーを出港してから1ヶ月後、フラム号がマデイラ諸島のフンシャルに寄港した際、北極点ではなく南極点を目指すことを乗組員に初めて明かしました。乗組員は、この時まで北極に向かうものと思っていました。アムンセンの目的は、ロバート・スコット隊が南極点に到達する前に、地理上の南極点に到達する事でした。

 

1911年1月14日、フラム号は南極大陸に到着し、アムンセン隊はロス棚氷の北東部にあるクジラ湾から南極大陸に上陸し、そこにフラムハイム基地を建設。越冬と探検の準備を始めました。そのときから4月までの間、翌春に南極点到達を推し進める際に使用するデポ(デポとは、夏の間に出来る限り多くの食料や燃料を持って奥まで進み、前線基地を築いていく作業をいう)の設置が行われました。やがて太陽が沈み、南極の長い冬の夜がやって来ました。

 

隊員達は、南極点旅行ための機材と貯蔵を準備しながら士気を維持し、冬の日課を行うだけでなく、秩序ある勤勉さで冬が過ぎていきました。アムンセンは、10年以上前、ベルギーのベルジカ探検隊で厳しい冬を耐え抜き、冬の準備と特に冬の暗い日々の間、精神を維持する事の重要性を理解していました。冬が終ろうとする早春、太陽が再び現れ、そりと犬とマッシャー(人間)の準備は整っていました。天候は、常に不満の原因でした。しかし、天気が最後の瞬間に変わる可能性があり、南極点への出発が急に中止となる事を意味していました。アムンセンと彼のチームは、最終的に出発する際のグループを、8つのそり隊(8人の男性)を86頭の犬で引く事にしました。最初の試みは、予想よりもはるかに寒い天候のため、中止され、チームはフラムハイム基地に戻らざるを得なくなりました。

 

結局、5つのそり隊(5人の男性チーム)は、それぞれ13頭の犬に引かれて出発しました。彼らは順調に進み、持参したアザラシの肉と脂身を犬に餌として与えました。餌の質は、低かったのですが、十分な量でした。

 

南極点到達に向けて最後の計画が立てられました。犬は計画的に銃で撃たれ、残りの犬たちの餌となりました。隊員と犬たちは、悪天候とブリザード、雪の状態に苦しめられました。アムンセンとその隊員は、1911年12月14日 金曜日、午後3時、地理上の南極点に到達しました。彼らは、スコットを打ち負かし、南極点一番乗りという快挙を成し遂げたのです。南極点に小さなテントを建て、その中に手紙を残しフラムハイム基地に帰還しました。

 

フラムハイム基地を出発してから39日目にロアール・アムンセンと4名の隊員、11頭の犬は、元気いっぱいに南極点に到達したのでした。人類で最初に南極点に到達したのは、ロアール・アムンセンとオラフ・ビアランド、ヘルマー・ハンセン、スベア・ハッセル、オスカー・ウィスティングの5名でした。スコットと南極点競争をするために、事前の通知なしに南極点に到達したという非紳士的な行為に対しての非難の為、晩年に多くの問題を抱えてしまいました。これらの非難は、アムンセンと隊員達が無事に生還出来、スコットと彼の隊員達は、帰還中に全員死亡してしまった事が、さらに苦痛となりました。

 

アムンセンが北極探険を続けている間、彼は、飛行船旅行にますます興味を持ち始めました。アムンセンは1928年、北極を飛行機で探検中、北極圏での飛行船墜落事故の生存者を探索中に行方不明となってしまいました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-4‐3)